【2016沖縄旅】①「琉球」と「沖縄」、二つの呼び方、どちらが古い?


告白。沖縄への思い
久しぶりに大好きな沖縄に行ってきました!
今回の旅は、15年余り通い続けた中でも、ちょっと特別な旅だったように思います。

大好きな沖縄を、あくまでも「プライベートな面での心のオアシス」として保存しておきたかった私は、仕事で沖縄の本をつくったことはほとんどありません。例外的に一冊だけ、沖縄味噌のレシピ本を作ったことがあるだけです。
「仕事」はシビアな世界ですから、大事な沖縄をそこに絡ませたくない、とそんな気持ちがあったんですね。

しかし、そもそものことを考えてみると、私が沖縄に通うきっかけになったのは、間違いなく本来私が追い求めてやまないもの、『歴史と文化』ど真ん中への興味からだったのです。

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〔写真:ナカグスク)

まず、最初に度肝を抜かれたのは、「中城(ナカグスク)」の美しい石積みでした。全く予備知識がないまま、訪れた中城にすっかりはまってしまい、書店に直行。沖縄には「グスク」という城郭と聖地を足して二で割ったような、本州にはない素晴らしい遺跡があることを知りました。
そして御嶽(うたき)、ユタに代表されるような、濃厚な宗教世界に圧倒されました。

そして音楽。私はもともとソウルミュージックやロックが大好きでしたので、沖縄の音楽シーンは堪らなく魅力的でしたし、また、民謡も大好きになり、結局登川流で民謡を習うまでになりました。
さらに、もちろんもっとも魅了されたのは、沖縄に住む人たちでした。
大らかで茶目っけたっぷり。うちなーぐち(琉球語)がまたたまらなくいいかんじ。
通ううちに、尊敬するミュージシャンのねえねえ方に知り合うことができ、それでかわいがってもらうようになったもんだから、もう居心地良いったらないわけです。

いや~、ほんとどっぷりですよ!

ところが、今回の旅で、一つ自分の中で明らかに変化したことがありました。

「大事だからこそ、仕事でも、沖縄のことを書いたりしてもいいのではないかしら」

ここのところです。
今の仕事も、好きでやっていることです。いつも余裕なしでキュウキュウ言ってますけど、しかし、やはり好きでやっている仕事です。そのど真ん中で、もっと好きな沖縄に関して発言してもいいのではないかしら、と急に思うようになったのでした。

「琉球」と「沖縄」という呼び方

そんなわけで、仕事とはいいがたいですが、本HPでもちょっとまじめにトピックスを書き出していきたいと思います。
まずは、「琉球」と「沖縄」という呼び方について。意外となんとなーくで使っていますが、この呼称、いったいどういう違いがあるんでしょうか。

なんとなく、「琉球」のほうが本来の呼び方であって、「沖縄」は、いわゆる明治政府による「琉球処分」により、「沖縄県」になって以降の名称、と言った印象が強い気がします。それはそれで、間違いではないのですが、「沖縄」という名前も古くて、とても大切な呼称である、ということは意外と認識されていないような気がします。

まず、「琉球」ですが文献に出てくるのはかなり古いのですね。

636年『隋書』の「東夷伝」に「流求」とあるのが、最初です。その後、14世紀後半に明国によって「琉球」と表記すると決められ、それに周辺諸国が倣った、ということのようですね。

一方、「沖縄(おきなわ)」が文献に登場するのは779年、鑑真の伝記『唐大和上東征伝』に、「阿児奈波嶋」とあるのが最初のようです。

鑑真さんは、あの唐招提寺を創設した偉大なるお坊様で、皆さんよくご存じと思いますが、何と沖縄に漂着していたんですね!

『日本歴史地名大系』によりますと……

「同書によると天宝一二歳(七五三)一一月一六日に四船で蘇州の黄泗浦を出発し、同月二一日に第一船と第二船が同時に「阿児奈波嶋」に到着したとある」

とあります。

その読み方は、「アコナワ」「アジナワ」「アルナワ」と、諸説あるそうなのですが、歴史学者・東恩納寛惇さんは「島民の語音ウチナワを表記したものであろう」と『南島風土記』でのべておられるとのことで、つまり、もともとの住人は「ウチナワ」と言っていたということだと思われるのですね。

国際語としての名称が「琉球」

こういう現象は、現在でもたくさんありますよね。

たとえば、私たちは日本人で、自分の国のことを「二ホン」「ニッポン」と呼びますが、海外では自ら「ジャパン」と言いますね。それと同じ。

それと、数年前に、ミャンマーの友人に、軍事政権によって国名を変更されてしまったのは、いやじゃない?と聞いたことがあるんですけど、
「ちがうんだよ、ブーマと同じくミャンマーという国名も古い名前で、国内ではそう呼ばれてたから、政府が変更したわけじゃない。国際的な呼び方もミャンマーにするって宣言しただけだから、別に違和感ないんだよ」

へえ、そうなんだ!と驚いたことがありますが、あ、そういや日本だって二つの名前があるもんな~、いや、二つの名前どころか、中国語だとリーベンだし、タイ語だとイーブンか…いろいろありますね。

沖縄もそういうことと言えそうですね。

地元の人たちは、自分たちのことを「ウチナワ」と呼び、対外的には「琉球」と呼んだ。「琉球」という名前は外側から与えられた名前ですが、それはそれでいろんな国の人が分かってくれるなら便利でいいかな、という感じだったかもしれません。

そして、「沖縄」という漢字、これも当て字となるわけですが、これは、『国史大辞典』によると、

『「オキナワ」の宛字のうち、『おもろさうし』の「おにきや」は古い呼称とみられるが、ほかに悪鬼納・倭急拿・屋其惹などがある。「おきなは」と最初に表記したのは長門本『平家物語』で、初めて「沖縄」の文字を使用したのは新井白石の『南島志』である。』

とあります。こちらも、歴史がありますね。「おきなは」の表記は、13世紀初頭の平家物語にはもう出てくるんですものね。新井白石の『南国志』は1719年に書かれてますから、これも古いです。
(とはいえ、いっぽうでこの「沖縄」という呼称が日本サイドからの呼称として、広く一般的だったかと言えば、ちょっと疑問ですね。「琉球使節団」のように、「琉球」と呼ぶのが一般的だったように思われます…)

そう考えますと、琉球処分の後【沖縄県】としたのは、あながちおかしなことではない気がします。「ウチナワ」転じての「沖縄」であれば、です。
【琉球県】としなかったのはなぜか、琉球人のアイデンティティを奪うためか?!と鼻息を荒くする必要はなかったのかもしれません(私はちょっと鼻息荒くしてましたが;;)。
どちらも、うちなーの人々にとって、親しんできたであろう国名なのではないかと思うからです。

とはいえ。様々な呼び方の中で、やはり私は「うちなー」が最も好きです。

沖縄の友人や、師匠が語る言葉の中に出てくる「うちなー」という言葉が好きで、私もこの呼び方を好んでいましたが、この優しい音が沖縄の本質に近いような気がしていたからかもしれません。ちょっと後付けですけども^^;。

(むとう)

【2015青森旅】④やっぱり、かっこいい。縄文デザイン!!


竪穴式住居。

いいですなあ。

思い起こせば、私は小学生時分、縄文人生活にあこがれる少女でございました。
昔住んでいた家が、縄文時代の住居跡の上だったので、ちょっと掘ると縄文時代の土器のかけらが結構出てくるので、その縄目文様や造形を見て、シンプルに「すごいかっこいいなあ」と思ったんですよね。

それで、社会科の図録なんかに出てくるドングリのコッペパンを再現してみようとしたり、地層から粒子の細かめの粘土をこねて乾かして、焚き火で焼いてみたりして。

そのほとんどが失敗に終わりました。でも楽しかったなあ。

縄文人、すごい!って憧れたなあ。

今回、三内丸山遺跡を訪ねてみて、その時のことを鮮明に思い出しました。

遺跡の復元をしている野外エリアから、手前の建物「縄文時遊館」に戻ります。様々な施設の集合体、と言った感じなんですがその中に「さんまるミュージアム」という博物館があります。
三内丸山遺跡の出土品を展示してあるみたいなんですね。

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こちらが入口!

ポイントポイントに、こんな感じのリアルな人形さんがお出迎え。リアルなんだけどちょっとデフォルメされていて、コワくないです。とても可愛い。
#そして、一緒に復元されている犬、いかにも縄文犬(天然記念物柴犬保存会系柴犬)ですね!

中に入りますと、また展示方法がおしゃれですよ~~。東京国立博物館の法隆寺館みたいなライティングで、展示物が暗闇に浮かび上がる、みたいな展示です。

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でた~!
十字型土偶@重要文化財!!
かっこい~~!

板状で十文字型のこういった土偶は、三内丸山遺跡から1600個ほど出土したんだそうで、顔、胸、へそが表現されています。そのほとんどが盛土遺構で、壊された形で出土しているため、何らかの祭祀で用いられたのではないか、と考えられているそうです。

そして、縄文時代界のアイドルともいうべき、こちら!

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縄文ポシェット@重要文化財~~~!!!

こちらがどうして貴重かと言いますと、「縄文時代の遺跡から出土した編組製品で立体的な形が分かる全国唯一のもの」(三内丸山遺跡HPより引用)だからです。

それにしても、確かにこういったものがよくぞ残った!って感じですよね。奇蹟ですよ~~!

ちなみにこちらの素材は、「ヒノキ科(ヒバ、スギ、ヒノキ、アスナロがある)に属する針葉樹の樹皮を素材としている」(HPより引用)そうです。4000年以上残ってきた、なんて、最強に「丈夫」ですよね。中からは半欠けのクルミのカラが出てきたんですって。
こういったポシェットを腰に括り付けて、採集した木の実なんかを入れていたんでしょうか。

こちらは、全然知らずにみていましたが、特別公開だったみたい。ラッキーですね!!

いや。

それにしましてもなんですけどね。今回改めて思いました。

小学生の私、間違ってない!

やっぱり、デザインかっこいいですもん。縄文デザイン!

やっぱ、長年憧れてきてよかった。
そしてそのトップランナーと言うべき三内丸山遺跡にこれて、本当によかったです!

【2015青森旅】③今も世界のどこかにある風景に見えてきた


1500年もの間、人々が住み続けた場所。
それが三内丸山遺跡なんですね。すごいなあ。

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さて、先ほどの6本柱建物の前には、大きくて長い建物が復元されています。

「(略)長さが10メートル以上のものを大型住居跡と呼びます。三内丸山遺跡では最大のもので長さ約32メートル、幅約10メートルのものが見つかっています。集落の中央付近から見つかることが多く、集会所、共同作業所、共同住宅などの説があります。」
(特別史跡三内丸山遺跡HPより引用)

茅葺屋根が何とも美しいですが、縄文時代にもこんな美しい茅葺があったのでしょうか。

ミャンマーの山岳地帯に住む少数民族が暮らす「ロングハウス」みたいな、または環太平洋の海洋民族にみられる集会所みたいな雰囲気ですよね。

内部に入ってみますと…

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かっこいい~!!

広々としてますね。そして長い!
この復元された大型竪穴式住居が何メートルかは、ちょっとはっきりわからないんですが、30メートルくらいありそう。

この大きな竪穴式住居を中心に、周囲にはいくつもの竪穴式住居が復元されていました。
20151011-3何だかかわいらしい家ですね。
地面と地続きな家、と申しましょうか…
「大地に抱かれている家」というような。
20151011-5入口はこんな感じです。
腰をかがめて入っていきますと…
意外と広い!
4・5畳くらいはありますし、屋根の高さもそこそこあって、身を屈める必要はありません。
私は159センチなので、ちょうど縄文人男性の平均くらいですから、子の高さがあれば十分だったでしょう。
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屋根組はこんな感じです。
縄と組み方で持って組んでるんですね。釘みたいなものはなかったのかな?
ちょっと調べてみると、出土品の中に釘が出ることもあるみたいなので、部分的にはそういうものを使っていたのかもですね。

ちなみに、こういった復元・竪穴式住居は、ワークショップのような形で、一般の人が力を合わせて造ったみたいですね。写真を撮るのを忘れてしまったのですが、名前を刻んだ大きな木札みたいなものがたくさん置いてありました。羨ましい!

それにしても、なかなか居心地のいい空間でした。4人家族で住む、なんてことになるとちょっと狭いけど、一人か二人で住む分には結構いいかもですよ。半地下ですから、暑さも寒さもそこそこ和らぎそうですし…
あ、でも冬は厳しそうだなあ。

とはいえ、この小さな竪穴式住居で寝起きをして、イベントや会議、共同作業なんかは集会所でやればいいんですから、必要十分かもしれませんね。
それに、こういう風に暮らしている人々は今もたくさんいます。

この復元された竪穴式住居群は、何だか今も世界のどこかにある風景に見えてきました。

(続く)

【2015青森旅】②憧れの三内丸山遺跡へ!!


カモメさんたちの鋭い視線に、ちょっとビビってペコペコしながら、駅前に戻ってバスに乗ります。

バスで30分ほど郊外へ行くと、ちょっと手前に有名な県立美術館、そしてその先に三内丸山遺跡はあります。

三内丸山遺跡には入口に「縄文時遊館」という博物館があります。全体の写真を撮るのを忘れてしまいましたが、とても素敵な建物です。

エントランスを入りますと…

20151006-1大きな縄文土器のレプリカがどーん!

おおおおおお!
テンション上がります!

さらに、縄文時代の衣装を着てみてね、と置いてあります。無料!
それは着るでしょう!
私も早速着てみました。素晴らしいですよ、小道具にお魚のレプリカまであって、選べるし。ちょっとおしゃれに腰ひもは2本づかいにしてみましたよ♪

いやあ、嬉しい!

それにしても気持ちのいい施設です。デザインも素晴らしいですし、びっくりすることにほとんどお金使いません。
三内丸山遺跡は、なんと無料で見学することができるんです。

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建物を抜け歩いていくと芝生が見え、その先に茅葺の建物が姿を現します。

おお、あれは、三内丸山と言えば……、な、あれじゃないの?!

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見たことある~!
「大型掘立柱建物」(別名六本柱建物ともよぶのかな?)と言うんだそうですが、櫓のようにも見えます。

この復元には、直径1mに及ぶ6本の大きな柱穴が発見されたことから、学者さんが推定して作ったとのことですが、こういうかたちではなく、「板葺の屋根のある建物」だった、「柱だけが佇立しているもの」だったなど、諸説あるようです。
しかもこの「大型掘立柱建物」は、この集落の中心部に東西に分かれて何棟もたてられていたことがわかってるんだそうですよ。すごいなあ。

この三内丸山遺跡ですが、今から約5500年前~4000年前(縄文時代前期中頃~中期末葉)の大規模な集落跡です。
なんと「約1500年」もの間にわたって定住生活が営まれていた、というわけですよ。ひゃ~!

長いですよ~、この1500年て。
そこまで同じ土地に、大人数のひとが住み続けるというのは、並大抵なことではありません。

…たとえるならば。
京都で見てみましょうか。

京都という土地は古くからの都ですが、都になったのは794年の遷都としますと、2015年までを考えましても1221年です。いえ、これでも十分にすごいことなんですけどね。それより300年ほど長いんですから…
#もちろん人口の規模が違う!と言われたらそれまでなんですが、それはちょっと置いといて…

この土地は、今はやりの言葉で言えば「サステナブル」な集落だった、と言えるかもしれませんね。人口はそこそこ増えたり減ったりはあったでしょうが、この土地にそれほど長い間住み続けることができた。それは、それだけの資源を、継続して得ることが可能だったから、とも言えます。

(続く)

【2015青森旅】①青森港。カモメの目は鋭かった


新卒で入った出版社で、最初に配属されたのは営業部でした。
小さな出版社でしたので、営業部は3人だけ。部長一人の部員二人、しかも新卒。

その新卒二人で、全国を二つに分け、まるで飛び込み営業のように全国を廻っていたのですが、その時、青森は私の担当でした。

いつも青森空港に降り立ち、青森駅のほうへとバスでむかうんですが、左手の方に「三内丸山遺跡←」の交通標識がでるのを、涙を呑んで見送ったものでした。

それから、苦節ウン十年。

とうとう、憧れのかの地へ行ける日が来たわけですよ~!

うん十年前になかったもの、それは新幹線。便利になったもんだ!
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新青森駅で在来線に乗り換えて、青森駅へ。構内には青森といえば「ねぶた」ということで、こういうのがいろいろ置かれてまして、いきなりテンション上がります!

まずは、おなかを膨らまそうということで、駅近くのお寿司屋さんへ。同行の友人Sちゃんの情報網を駆使して、こちらのお店をセレクト!
20150927-2駅から歩いて10分くらい。ちょっとおしゃれなお寿司屋さん。
入ってみますと、お店の方も親切で、いいかんじです!せっかくですので、カウンターにて。

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握りのランチをいただきました!2100円だったかな??
どのネタも大振りで、新鮮でおいしかったですが、特にホタテの貝柱とウニとマグロが絶品でした!さすが、産地だなあ。

いやあ、ほんと。いいスタート切りましたよ!

すっかり調子の出てきた二人。

三内丸山遺跡に行くバスの時間までちょっと間ができたので、青森港のほうへと向かいます。歩いて5分くらい。
懐かしいなあ。
昔出張で来たときには、午前中に主要書店を廻って、13時くらいの盛岡行きにのらなくちゃいけなかったので、観光する時間なんてないんです。そこで唯一見ることができたのがこの青森港。
当時、そこには巨大なホタテガイの貝殻の山がそびえたっていて度肝を抜かれたものでしたが、現在はそんな面影はなく、物産館アスパムという施設があったりしまして…

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なぜかピラミッド形。
なぜだ…。こういうたてものって四角のよりだいぶお金かかりそうだけど…
あ!ひょっとして!??
貝殻の山と同じような形だってことは!!??
……たぶん、関係ないですね。

そしてその前方には、青森港が広がります。
だいぶきれいになったなあ、という印象ですが…

あ、かわいい。
カモメがたくさんとまってますよ!

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プリッとしたお尻が可愛いわあ、なんて言いながら近寄って写真を撮りまくりましたが、レンズを通してみたら…

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殺し屋みたいな目をしていてビビりました。

野生を舐めちゃいけませんね!

(続く)

土偶を観に行く旅もいいな…『縄文遺跡ガイド~北海道北東北~』/インテリジェント・リンク編


縄文時代と一口にいうと、鎌倉時代、室町時代と並ぶような時代区分に聞こえてしまうかもしれませんが、それは大きな間違いです。

縄文時代は、紀元前〔BC〕1万2・3000年から、紀元前〔BC〕 300年までのことを指します(諸説あり、国史大辞典参考)。

さらりと言いましたよ。

しかしよく考えてみてください。

日本列島の歴史のなかで、約1万2000年間も、「縄文時代」ですからね?!

その後続く弥生時代は、紀元前3世紀ごろから紀元後〔AC〕 3世紀ごろまでですから、だいたい600年間です。

何でしょう、このバランスの悪さ。

その後の日本の歴史が1700年ですからね、弥生時代と足し算しても2300年間しかありません。

12000対2300です。約五倍です。

このボリューム感の違いは、皆さん意外と気が付いてないんじゃないかと思うんです。しかし、ちょっと冷静になってみてみますと、時代の長さだけで言えば、日本を代表する文化は縄文時代の文化と言うべきかもしれませんよ。岡本太郎さんの直観は大変正しい。

そんなこんなで前置き長いですが、仕事が煮詰まると、脳内旅行をし始めるのが私の習性。今日はふと、この本を手に取りました。

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先日見てきた「マスク展」@庭園美術館に触発されましたね。無意識でしたけど。

今回はフランスの博物館の収蔵品ですから、どうしても東アジアのラインナップが弱かったんですね。日本が世界に誇るプリミティブ・アートと言えば、そう「土偶」ですよね!!

こちらの図録は、トーハクさんで2009年に開催された「国宝 土偶展」のもので、当時、大英博物館で開催された展示の凱旋という意味合いもあったんですが、国宝指定されている三体、「縄文のヴィーナス」(茅野市棚畑遺跡出土)、「中空土偶」(函館市著保内野遺跡出土)、「合掌土偶」(八戸市風張1遺跡出土)を一度に観られるということで、ものすごく貴重な展覧会でした。

現在国宝に指定されてますのは、当時の三点に「縄文の女神」(山形市・西之前遺跡出土)、「仮面の女神」(茅野市中ツ原遺跡出土)が加わって、5体。

2009年当時も、この二体も、重要文化財としてラインナップされていて、もちろん見ることができました。

こうして、日本の素晴らしい原始美術を見てますと、やはりむくむくと、現地で観たいという気持ちが高まってきますよね。

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そこで、また手に取りましたのがこの本。

ずいぶん前に買って、行きたいところに付箋を立ててそのまま……(涙)。

北海道と北東北には、素晴らしい縄文文化の中心地ともいえる場所でしたので、三内丸山遺跡はじめ、見てみたい縄文遺跡はたくさんあります。

ただ、ちょっと気をつけなくてはいけないのは、意外と土偶現物はトーハクさんにあったりするんですよ。例えば有名な重文の遮光器土偶(つがる市木造亀ヶ岡出土。この本の表紙にレプリカが載ってますけど)は、トーハクさんにあり、たしか常設展でも観ることができます。

でも、やっぱり三内丸山遺跡かなあ。

恥ずかしながら、まだ行ったことないんです。昔、出版社の営業部にいたときに青森は担当地域だったので、何度も訪ねているんですが、空港から市内へ向かうバスでいつも標識だけ眺めて涙を呑む、ということをやっていました。

ああ、旅に出たい。夏の東北や北海道は、美しいですよね……。

わからないって面白い!~シンポジウム「埼玉古墳群の謎」1/25~



古代の東日本ってどんなかんじ?

土曜日は、シンポジウム「埼玉古墳群の謎~東国を治めた古代豪族~」をみにいってきました。
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関東在住の古代史ファンにとって埼玉古墳群はビッグネームですよね!古代史ロマンの玉手箱、もしくはタイムカプセルって感じ?

あまり興味のない方にも、あえてざっくりご説明するならば。

「5世紀から7世紀の東国ってどんなかんだったのかが、古墳を見ているといろいろわかってくる」。

なので面白いのです。

高校くらいまでに習った日本史なんかですと畿内(大和王権)のことを習うので精いっぱいですし、それ以外の勢力についてはあまり書いてないですよね。畿内以外は後進地みたいな描かれ方です。

しかし、最近ではそういう中央ばかりではない想像図が様々描かれるようになっています。

ちなみに、5~7世紀といえば、倭の五王の時代から飛鳥時代まで。

人物でいうと、5世紀初頭から半ばからだと、【仁徳天皇】、【雄略天皇】、【継体天皇】(欽明天皇のお父さん)とか。その100年後くらいの530年くらいだと【欽明天皇】(仏教伝来で有名ですね)とか。この欽明天皇は、【聖徳太子】のお祖父さん。

聖徳太子が活躍したのは590年くらいから、つまり6世紀末から7世紀初頭にかけて。

7世紀といえば、やっぱり大化の改新で有名な【中大兄皇子】(天智天皇)でしょうか。そして、壬申の乱を経て、【大海人皇子】(天武天皇)へ。

……っていう時代ですよ。

憧れの大塚初重先生!!
そんな時代、関東界隈がどうなってたか。そんなことが古墳を通じてちょっとずつわかってくるわけですね。

さてさて、そんなことに興味がある人にとっては、「埼玉古墳群」というのは、特別な古墳群です。全国でも類をみない「銘文」を有する鉄剣が発見された稲荷山古墳があるところですし。この鉄剣は、国宝になってますね。

この鉄剣、またその鉄剣があった古墳群の意味合い、そして新しくわかってきたことなどをシロウト向けに発表してくれるのが、このシンポジウムの趣旨です。

古代史ファンにとってはまさに垂涎のイベントですよね!!

さらにさらに。

基調講演は、大塚初重(おおつかはつしげ)先生!!

登呂遺跡や綿貫観音山遺跡、そして私の大好きな装飾古墳・虎塚古墳の発掘でもめちゃくちゃ有名。考古学界の超大物です。御年88歳っ!!

大塚先生のお話を聞けるだけでも、このシンポジウムに行く意味があります。

いよいよ、先生登場。

うわ~ラブリーな人キターー!!
20140125-2その時の私のメモ。興奮してたからでしょうか、「たぶん150~150」と書いてますが「150~155」と書きたかったんですけどね。

すっごく小柄なんです。

小さくてかわいらしいんですけど、肩が厚い!考古学者の先生方は方がしっかりしてる方が多いような気がしますが、気のせいでしょうか。

さて、こうして先生の講演開始。

基調講演ですので、本シンポジウムの目的を示しつつ、概略を説明してくださるかんじ。お話上手だという噂どおり、サービス精神満点。
鉄剣はどうしてすごいのか、ということもものすごくわかりやすく説明してくださいました。

「鉄剣がすごい理由」
■年号表記があること
■人物名があること
■115文字という長い文章が刻まれている点(東アジア全域で見ても異常と言っていいほど長い)

ちなみに、この銘文。どんなことが書かれていたかというと、すっごいざっくりいうと「プロフィール」とか「経歴」みたいなものです。

この鉄剣に銘文を刻んだ本人の名前・「ヲワケ」、
そしてこのヲワケさんの血筋的来歴(最初の祖先の名前(オホヒコ)からスタート→8代目がオワケ)、
そして職業は近衛隊隊長で、仕えた人の名前はワカタケルの大王である、と。

こういうことが明確に書かれている、しかもそれが、ゴージャスにも金で、刀身に。そのすべてが、珍しい、というか「異常」と言ってもいいすごい発見だったそうなんですね。

こういった刀剣の存在で、当時の大和王権と地方豪族との関係性がわかりますし、また、そのほかに埋葬されていた武具や馬具などからは、東アジアとの関連性も類推することができるわけですね。

大塚先生は、
「何でもかんでもいいものが出たらそれは『畿内のもの』と言い出してしまう構図は安易なのではないか」(ムトウの意訳です)

「すべてが畿内から地方へという構図ではないのでは?ダイレクトに外国との交流を行っていたといってもいいと思う」(意訳)

と言ったことを言っておられましたよ。そして、くすくす笑いながら、

「今でこそだいぶ変わりましたけど、私が若いころには関西の偉い先生に、『君はアヅマエビスだからな』と本気で言われて、いまだにそんなことを言うのか、と驚いたものです」

と言っておられたのには、私も笑ってしまいました。というのも、私も言われたことがあるからです。本当に未だにそういうこと言う人いるんですよね。

それにしても、先生は、話せば話すほど声が大きくなり、目がキラキラと輝いて、まるで少年のように興奮して話されておられたのには、何か胸が熱くなる思いがしました。

「ようするにね、わからないってことなんです」

と、いたずらっ子のような笑顔でおっしゃる。

「どんどんいろんなものが出てきて、いろんなことがわかってきました。でもわかってきたらさらにわからないものが見いだされて、もっとよくわからなくなるんです。でも、それがいいんです」

最後のほうには、そんな風に嬉しそうにおっしゃられてました。

たくさんのお弟子さんを育て、人格者としても高名な大塚先生。 考古学が楽しくて仕方がない、という様子が、とにかく素晴らしかったです。

あああ、何かお仕事一緒にできないかなあ……。

 

モチーフから世界観と歴史を読み解く……『奈良美術の系譜』/小杉一雄著


東洋美術史の巨人・會津八一博士の直系
学問の世界は、領域意識が皆さん強いので(それだけ譲れない信念を持っている、とも言えます)、なかなか横に広がって検証する、みたいな動きは難しいようです。…そうしますと、ある領域では、当たり前のことでも、すぐ隣の領域では誰も知らない、みたいなことが起こってしまう、と…。

歴史学の研究者と、考古学の研究者、一般人から見て「え?何が違うの?昔のこと研究してるんだから同じじゃないの?」なんて思うかもしれませんが、当事者からすると、それはあまりにも乱暴なお話なわけで。例えば同じ時代の研究をしていても、まったく研究する方向性・方法論がちがうので、それによって導き出される結論もかなり違ってくるわけです。

以前、尊敬する歴史学者の先生がご著書で、「日本の歴史を、日本だけで語ろうとしてはいけない。もっと大きな視座を持たねばならぬ」という意味合いのことをおっしゃられていたのですが、いや、ほんとその通り!と膝を打ったのですけど、この本を読むと、本当に改めてそのことを改めて思い知らされました。
なんかもう読んでてワクワクしちゃってね、読み終わってから踊りだしたくなるような気持ちにさせられちゃいましたよ!
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小杉先生は、偉大なる東洋美術史家で歌人の會津八一博士のお弟子だった方です。本書をものされた時(1993年)、すでにに85歳。

「師匠は私に奈良の美術の本当の姿を知るためにはうちがわからばかり眺めずに、美術の故郷である中国古代に身を置いて、中国がわから眺めなければならないということを教えてくださいました。それ以来六十有余年、私は中国の岸辺に立って、小手をかざして奈良の美術の本質を眺め暮らしてきたのです。」(「はじめに」より引用)

師匠への溢れるばかりの敬愛は、本書のなかでも随所に感じられるのがまた素敵なのですが、その視野の広さ、柔らかさは、私のような一般読者にとっては目からうろこの嵐です。何よりその人柄がにじんでいる文章がいいんですよね。たまにキカンキの強い少年のような表現があるんですけど、それすら微笑ましい。

藤の木古墳の年代比定についても一言在り
すべての章が面白かったんですが、特に抜いてご紹介するとすれば、本書には日本の古代美術から頻繁に登場するモチーフである「鬼神」「天女」「仙人」について、目からうろこのお話があります。

例えば、「鬼神」について。

藤ノ木古墳から出土した鞍金具には、二つの武器を持った鬼神が浮き彫りされていました。この鬼神を見て、小杉先生は一瞬で「これは『蚩尤(しゆう)』だ」と思ったというのです。

『蚩尤』というのは、古代中国の美術を見てますと、めちゃくちゃよく出てくるモチーフです。古代中国の神話の中で、大人気の神さまで、5つの武器を発明したことから最強の戦神として崇敬されました。

ちなみに、この蚩尤さんはとても長い間中国の人々が信仰し、表現していたので、時代によって徐々にその形状が変わっていきました。

例えば、指の数。当初は三本指が多かったのですが、6世紀末から7世紀末徐々に5本指になったと小杉先生は言われます。また、武器も、最初は5種類持っていたのが簡略されて二種類になっていくのですが、それもわせて考えますと。

この藤の木古墳の鞍金具に彫られている鬼神(蚩尤)の指は、五本指でかつ二つの武器を持っているので、そのモチーフが変化していく過程を考えたときに、7世紀後半が妥当だと思う、と言われるのです。

おおおお!?ほんとに??

ちなみに、その指摘は藤の木古墳が発掘された当初から、小杉先生は指摘されておられたとのことですが、当時は6世紀前半、現在では6世紀後半と比定されてるようです。そうしますと100年余りの差がありますね。

「私はあえてこのことで藤の木古墳そのものの年代をうんぬんしようとは思わない。古墳ができてから後に馬具だけが何かの理由で入れられることも十分にありうることではある。
(中略)6世紀前半か中ごろとされる藤の木古墳から、7世紀中期以後の5本指の蚩尤が出土したというのは、江戸時代の墓とばかり思っていたのが、中からコカ・コーラの瓶が出てきたというわけなのである。」(P160より引用)

アハハ、すごい言い方ですね^^;。

だけど、それくらい、モチーフからみたらおかしな話なわけですよね。

「これは蚩尤と言ってもいい、しかし5本指だからといってそれを気にしすぎる必要ないんじゃない?たまたまこれが5本指に描かれただけかもしれないじゃないの?だから、6世紀のお墓である、という説をまげるつもりはありません~」(むとう解釈で要約)

当事者から、そんな風に言われちゃった小杉先生の精一杯な皮肉です。

でもね、やっぱり変な話ですよ。モチーフ、っていうかデザインってその時代を反映しているし、特にこんな大事なところに、王族のお墓に入れるようなものなんですから、かなりしっかりと選びますでしょう。その人物が愛用していたもの、またはその時代ならではで高品質なもの、宗教的思想的に意味のあるものを副葬品にするはずですよね。

なかなかいいたとえが浮かびませんけど…

例えば、火の鳥というモチーフはものすごく昔からあるモチーフですけど、手塚治虫さんが書いた「火の鳥」ってありますね。それまでの火の鳥とは違いますよ。よりデフォルメされ擬人化した表情の火の鳥です。
この「手塚さん型火の鳥」が、とあるお墓から発見されたとしますよ?そうしましたら、少なくとも手塚さんが火の鳥が描かれたのは1954年からなので、このお墓は1954年以降のものだろう、とそう推理するでしょう。

「あとから入れたんじゃない?」ということはできますけど、100年ほど前の人のお墓に、あえていれますかね??なんかおかしくないですか???

…小杉先生はそんなことをおっしゃりたいのかな、と思いました。私も同感です。

日本美術、仏像、古代史に興味のある方には、特にお勧め!
少々長くなってしまいましたが、ほかにも目からうろこなお話が、とても分かりやすくかかれています。
ぜひ、そのあたりにご興味のある方で未読の方は是非読んでみてください!すごいおもしろいですよ!
それまでなんだこれ?と思っていたものが、そういう意味だったのか!となります。すごい楽しいです。

少々余談ですが、実は小杉先生は、画家として高名な小杉放菴の息子さんなので、絵もデザインも上手。このカバーデザインの原案もご自分でされてるそうです。説明する為のイラストも先生の自筆です。

シンポジウム「埼玉古墳群の謎~東国を治めた古代の豪族~」(1/25)開催


早いもので、もう12月。今年もあと28日ですねえ。早いなあ。

そんなこんなで、もう来年のイベント情報です。

古代史好きにはたまらない、こんなイベントが開催されるそうですよ~!

シンポジウム「埼玉古墳群の謎~東国を治めた古代の豪族~」
日時:1/25 場所:大宮ソニックシティ
http://www.sakitama-muse.spec.ed.jp/

申し込みは、往復はがき。多い場合は抽選。
最近、古墳時代の魅力に改めてはまっているムトウとしましては、これはぜひとも行きたい!
最近抽選になって当たったためしないんですけど、ダメもとで早めに出そうっと。

猫はいつ日本にやってきたのか~古墳時代の動物事情~


 

素人なりに歴史を少しでもちゃんと学びたいと思い、尊敬する大編集者・Yさんが立ち上げられた出版社・敬文舎さんが主催する「日本歴史文化講座(ヒスカル)」の講座に通っています。

古代の日本は大好きなんですけど、例のごとくつまみ食いで、ちゃんと勉強したことのない私にとっては、専門的な内容も含めてわかりやすく説明してくださるので、毎回とても勉強になっています。

さて、昨日は、講座の聴講生の皆さんとYさんと、講師のH先生を囲んでお茶をされるというので、そこに混ぜていただきました。

そこでも先生がいろいろ話をされていて楽しかったのですが、中でも『古墳時代の動物事情』ともいうべきお話がまたおもしろかった!

講座でも、馬や牛が古墳時代にどうだったか、というお話はよく出てきていました。魏志倭人伝には牛馬は倭の国にはいない、という有名な記述があるそうなのですが、それも、断定はできません。

日本最古の痕跡としては、箸墓古墳の周壕から馬具が発見されたそうで、これが4世紀初頭(300年代)。箸墓は卑弥呼のお墓じゃないかと言われている古墳なので、魏志倭人伝の記載とはちょっと食い違う感じもしないでもありませんが、少なくとも、これくらいには日本に馬はいた、と言っていいと思われます。これ以降の古墳からは、馬の骨や馬具がよく出てくるそうですしね。

聴講生のおひとりが、「馬はもちろん、犬は古くからいることはわかってますけど(むとう注:縄文時代の遺跡からもよく出てきますからね)、猫はいつから日本に来たんですか?」と聞かれると、

「猫はよくわかっていないんですよ。発掘していても猫の骨というのはあまり出てこない。でてきたときしてももっと新しい時代の骨なんじゃないか、と考えられてたんですね。というのも、埴輪で、猫とか出てこないんでね。犬とか馬形なんかはありますけど…。文献で、猫は平安時代には出てきますから、おそらく奈良時代終わりくらいには確実にいたと考えていいと思うんですけど、…っていう定説だったんですけどね。
実は数年前、古墳の中から須恵器、杯身(蓋付きの皿)の内側に、猫の足跡と思われるものが発見されたんですよ」

「タヌキとか、そういうのではなくてですか?」

「動物の専門家が見ても多分猫だろうってことなんですよね。そうなると、この遺跡は6世末から7世紀前半の古墳だったので、それくらいにはもう猫がいたんじゃないか、となりますけどね(笑)」

ええええ! 須恵器に猫の足跡ってめちゃくちゃかわいい!
なんかすごいピースフルじゃないですか?!

ディテイルを知りたくて、早速、ネットで検索してみると、ありましたありました。

兵庫県の姫路市にある、「見野古墳群」(6世紀~7世紀中ごろ)の横穴式石室から出土したんだそうですよ。発見したのは立命館大の学生。杯身(つきみ)と呼ばれる食器〔直径15センチ〕の内側に、白く丸い肉球らしき跡が5つ並んでいるのを発見したそうです。

ネットに残っているニュースの断片をいくつか見ますと、どうもその肉球の周りには爪のあとがないので、猫と特定していいんじゃないか、って感じになってるみたいです。猫は爪の出し入れができますからね。

いや、でも実際いたんじゃないかと思うんですよね。

だって、馬とか牛とか、船で運んでくるのに、猫がいないなんてなんかおかしい。

ご存じのように、猫はエジプトあたりにいるリビアヤマネコを家畜化したものと言われています。エジプトでは神としても尊崇されて大切にされましたが、その後徐々に世界中に広まりました。ちなみにちょっと調べてみますと、紀元前2世紀ぐらいにはお隣の中国に猫がいたことはわかってるんだそうです。

また、猫がさらに一般的に広がったのは7世紀くらいみたいですね…。航海時ネズミ駆除のために猫を乗せる、ということをしてたんだそうですが、それでさらに広まったみたいですね。

すると、この古墳の時代に該当しますねえ。

こりゃあ、いましたね。間違いなく。

20131030