【山梨旅】「疾風に折れぬ花あり」(中村彰彦先生連載)の舞台へ①武田松姫ゆかりの向嶽寺


20140510-2松姫が一時隠れていた塩山の名刹・向嶽寺へ
大善寺さんを後にして、次は「向嶽寺」さんへ。車で15分ほど。この辺りではけっこう大きな駅・塩山駅のほど近くです。

塩山はえんざんと呼びますが、これは向嶽寺の山号でもありますし、その北側にある小さな山・塩の山からきたものでもあります。数年前に市町村合併で、それまで塩山市でしたが現在は「甲州市塩山」になっています。

この向嶽寺は、「疾風に折れぬ花あり」の中で、とても大切な場所です。物語の主人公・松姫さんが、古府中(甲府)を脱出した後、一時こちらに潜んでいたんですね。

「松姫が臨済宗の向嶽寺を立ち寄り先と決めたのは、この大寺院が南北朝の時代を生きた甲州武田家の8代目・武田信成によって建立された寺だからである」(『文蔵』2014.1月号より引用)

大善寺はもちろん、この界隈には武田家ゆかりのお寺がたくさんありますが、やはりこちらも武田家縁のお寺だったんですねえ。

現役の修行場、の風格
以前、中村先生とN編集長がこちらを訪れた時の感想として「とても広い境内で、今も修行僧がいる現役の修行場、という感じがしたよ」と伺っていましたが、なるほど、想像していたよりもさらに境内が広い!

火災で何度か燃えてしまっているとのことで、古い建物と新しい建物が混在している感じです。尋ねた時間帯があまり良くなかったのか、お坊さんの姿は拝見できませんでしたが、今も修行僧(雲水)の皆さんが修業してるのかな~。

こちらのお寺は非公開のお寺さんなので、境内からそっと拝観します。境内の写真撮るの忘れてしまいましたが、いかにも禅宗らしい佇まいのすがすがしいお寺です。上の写真は、仏殿。ここまでは誰でも入れるんですね。

やはり、資料や地図などではよく拝見していたつもりでしたが、 実際こうしたおとずれてくると、なるほどと腑に落ちるような感じがします。

もし、織田軍がやってきても勝沼から笹子峠のほうに抜けられますし、またこれだけ寺域が広ければ、お坊さんも多かったでしょうし、松姫さん一行を滞在させるだけの場所も十分にあったことでしょう。
そしてこのお寺に滞在したことが、その後の松姫さんの逃亡先を確定することになったのですから、まさに運命の場所と呼んでもいいかもしれません。

そして、ここから次に行く恵林寺さんは、2・4キロしか離れていません。恵林寺さんは武田家の菩提寺。武田勝頼が死んで武田氏滅亡となった後、織田軍によって容赦ない破壊をされたお寺です。

(続く)

わからないって面白い!~シンポジウム「埼玉古墳群の謎」1/25~



古代の東日本ってどんなかんじ?

土曜日は、シンポジウム「埼玉古墳群の謎~東国を治めた古代豪族~」をみにいってきました。
20140125-1

関東在住の古代史ファンにとって埼玉古墳群はビッグネームですよね!古代史ロマンの玉手箱、もしくはタイムカプセルって感じ?

あまり興味のない方にも、あえてざっくりご説明するならば。

「5世紀から7世紀の東国ってどんなかんだったのかが、古墳を見ているといろいろわかってくる」。

なので面白いのです。

高校くらいまでに習った日本史なんかですと畿内(大和王権)のことを習うので精いっぱいですし、それ以外の勢力についてはあまり書いてないですよね。畿内以外は後進地みたいな描かれ方です。

しかし、最近ではそういう中央ばかりではない想像図が様々描かれるようになっています。

ちなみに、5~7世紀といえば、倭の五王の時代から飛鳥時代まで。

人物でいうと、5世紀初頭から半ばからだと、【仁徳天皇】、【雄略天皇】、【継体天皇】(欽明天皇のお父さん)とか。その100年後くらいの530年くらいだと【欽明天皇】(仏教伝来で有名ですね)とか。この欽明天皇は、【聖徳太子】のお祖父さん。

聖徳太子が活躍したのは590年くらいから、つまり6世紀末から7世紀初頭にかけて。

7世紀といえば、やっぱり大化の改新で有名な【中大兄皇子】(天智天皇)でしょうか。そして、壬申の乱を経て、【大海人皇子】(天武天皇)へ。

……っていう時代ですよ。

憧れの大塚初重先生!!
そんな時代、関東界隈がどうなってたか。そんなことが古墳を通じてちょっとずつわかってくるわけですね。

さてさて、そんなことに興味がある人にとっては、「埼玉古墳群」というのは、特別な古墳群です。全国でも類をみない「銘文」を有する鉄剣が発見された稲荷山古墳があるところですし。この鉄剣は、国宝になってますね。

この鉄剣、またその鉄剣があった古墳群の意味合い、そして新しくわかってきたことなどをシロウト向けに発表してくれるのが、このシンポジウムの趣旨です。

古代史ファンにとってはまさに垂涎のイベントですよね!!

さらにさらに。

基調講演は、大塚初重(おおつかはつしげ)先生!!

登呂遺跡や綿貫観音山遺跡、そして私の大好きな装飾古墳・虎塚古墳の発掘でもめちゃくちゃ有名。考古学界の超大物です。御年88歳っ!!

大塚先生のお話を聞けるだけでも、このシンポジウムに行く意味があります。

いよいよ、先生登場。

うわ~ラブリーな人キターー!!
20140125-2その時の私のメモ。興奮してたからでしょうか、「たぶん150~150」と書いてますが「150~155」と書きたかったんですけどね。

すっごく小柄なんです。

小さくてかわいらしいんですけど、肩が厚い!考古学者の先生方は方がしっかりしてる方が多いような気がしますが、気のせいでしょうか。

さて、こうして先生の講演開始。

基調講演ですので、本シンポジウムの目的を示しつつ、概略を説明してくださるかんじ。お話上手だという噂どおり、サービス精神満点。
鉄剣はどうしてすごいのか、ということもものすごくわかりやすく説明してくださいました。

「鉄剣がすごい理由」
■年号表記があること
■人物名があること
■115文字という長い文章が刻まれている点(東アジア全域で見ても異常と言っていいほど長い)

ちなみに、この銘文。どんなことが書かれていたかというと、すっごいざっくりいうと「プロフィール」とか「経歴」みたいなものです。

この鉄剣に銘文を刻んだ本人の名前・「ヲワケ」、
そしてこのヲワケさんの血筋的来歴(最初の祖先の名前(オホヒコ)からスタート→8代目がオワケ)、
そして職業は近衛隊隊長で、仕えた人の名前はワカタケルの大王である、と。

こういうことが明確に書かれている、しかもそれが、ゴージャスにも金で、刀身に。そのすべてが、珍しい、というか「異常」と言ってもいいすごい発見だったそうなんですね。

こういった刀剣の存在で、当時の大和王権と地方豪族との関係性がわかりますし、また、そのほかに埋葬されていた武具や馬具などからは、東アジアとの関連性も類推することができるわけですね。

大塚先生は、
「何でもかんでもいいものが出たらそれは『畿内のもの』と言い出してしまう構図は安易なのではないか」(ムトウの意訳です)

「すべてが畿内から地方へという構図ではないのでは?ダイレクトに外国との交流を行っていたといってもいいと思う」(意訳)

と言ったことを言っておられましたよ。そして、くすくす笑いながら、

「今でこそだいぶ変わりましたけど、私が若いころには関西の偉い先生に、『君はアヅマエビスだからな』と本気で言われて、いまだにそんなことを言うのか、と驚いたものです」

と言っておられたのには、私も笑ってしまいました。というのも、私も言われたことがあるからです。本当に未だにそういうこと言う人いるんですよね。

それにしても、先生は、話せば話すほど声が大きくなり、目がキラキラと輝いて、まるで少年のように興奮して話されておられたのには、何か胸が熱くなる思いがしました。

「ようするにね、わからないってことなんです」

と、いたずらっ子のような笑顔でおっしゃる。

「どんどんいろんなものが出てきて、いろんなことがわかってきました。でもわかってきたらさらにわからないものが見いだされて、もっとよくわからなくなるんです。でも、それがいいんです」

最後のほうには、そんな風に嬉しそうにおっしゃられてました。

たくさんのお弟子さんを育て、人格者としても高名な大塚先生。 考古学が楽しくて仕方がない、という様子が、とにかく素晴らしかったです。

あああ、何かお仕事一緒にできないかなあ……。

 

モチーフから世界観と歴史を読み解く……『奈良美術の系譜』/小杉一雄著


東洋美術史の巨人・會津八一博士の直系
学問の世界は、領域意識が皆さん強いので(それだけ譲れない信念を持っている、とも言えます)、なかなか横に広がって検証する、みたいな動きは難しいようです。…そうしますと、ある領域では、当たり前のことでも、すぐ隣の領域では誰も知らない、みたいなことが起こってしまう、と…。

歴史学の研究者と、考古学の研究者、一般人から見て「え?何が違うの?昔のこと研究してるんだから同じじゃないの?」なんて思うかもしれませんが、当事者からすると、それはあまりにも乱暴なお話なわけで。例えば同じ時代の研究をしていても、まったく研究する方向性・方法論がちがうので、それによって導き出される結論もかなり違ってくるわけです。

以前、尊敬する歴史学者の先生がご著書で、「日本の歴史を、日本だけで語ろうとしてはいけない。もっと大きな視座を持たねばならぬ」という意味合いのことをおっしゃられていたのですが、いや、ほんとその通り!と膝を打ったのですけど、この本を読むと、本当に改めてそのことを改めて思い知らされました。
なんかもう読んでてワクワクしちゃってね、読み終わってから踊りだしたくなるような気持ちにさせられちゃいましたよ!
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小杉先生は、偉大なる東洋美術史家で歌人の會津八一博士のお弟子だった方です。本書をものされた時(1993年)、すでにに85歳。

「師匠は私に奈良の美術の本当の姿を知るためにはうちがわからばかり眺めずに、美術の故郷である中国古代に身を置いて、中国がわから眺めなければならないということを教えてくださいました。それ以来六十有余年、私は中国の岸辺に立って、小手をかざして奈良の美術の本質を眺め暮らしてきたのです。」(「はじめに」より引用)

師匠への溢れるばかりの敬愛は、本書のなかでも随所に感じられるのがまた素敵なのですが、その視野の広さ、柔らかさは、私のような一般読者にとっては目からうろこの嵐です。何よりその人柄がにじんでいる文章がいいんですよね。たまにキカンキの強い少年のような表現があるんですけど、それすら微笑ましい。

藤の木古墳の年代比定についても一言在り
すべての章が面白かったんですが、特に抜いてご紹介するとすれば、本書には日本の古代美術から頻繁に登場するモチーフである「鬼神」「天女」「仙人」について、目からうろこのお話があります。

例えば、「鬼神」について。

藤ノ木古墳から出土した鞍金具には、二つの武器を持った鬼神が浮き彫りされていました。この鬼神を見て、小杉先生は一瞬で「これは『蚩尤(しゆう)』だ」と思ったというのです。

『蚩尤』というのは、古代中国の美術を見てますと、めちゃくちゃよく出てくるモチーフです。古代中国の神話の中で、大人気の神さまで、5つの武器を発明したことから最強の戦神として崇敬されました。

ちなみに、この蚩尤さんはとても長い間中国の人々が信仰し、表現していたので、時代によって徐々にその形状が変わっていきました。

例えば、指の数。当初は三本指が多かったのですが、6世紀末から7世紀末徐々に5本指になったと小杉先生は言われます。また、武器も、最初は5種類持っていたのが簡略されて二種類になっていくのですが、それもわせて考えますと。

この藤の木古墳の鞍金具に彫られている鬼神(蚩尤)の指は、五本指でかつ二つの武器を持っているので、そのモチーフが変化していく過程を考えたときに、7世紀後半が妥当だと思う、と言われるのです。

おおおお!?ほんとに??

ちなみに、その指摘は藤の木古墳が発掘された当初から、小杉先生は指摘されておられたとのことですが、当時は6世紀前半、現在では6世紀後半と比定されてるようです。そうしますと100年余りの差がありますね。

「私はあえてこのことで藤の木古墳そのものの年代をうんぬんしようとは思わない。古墳ができてから後に馬具だけが何かの理由で入れられることも十分にありうることではある。
(中略)6世紀前半か中ごろとされる藤の木古墳から、7世紀中期以後の5本指の蚩尤が出土したというのは、江戸時代の墓とばかり思っていたのが、中からコカ・コーラの瓶が出てきたというわけなのである。」(P160より引用)

アハハ、すごい言い方ですね^^;。

だけど、それくらい、モチーフからみたらおかしな話なわけですよね。

「これは蚩尤と言ってもいい、しかし5本指だからといってそれを気にしすぎる必要ないんじゃない?たまたまこれが5本指に描かれただけかもしれないじゃないの?だから、6世紀のお墓である、という説をまげるつもりはありません~」(むとう解釈で要約)

当事者から、そんな風に言われちゃった小杉先生の精一杯な皮肉です。

でもね、やっぱり変な話ですよ。モチーフ、っていうかデザインってその時代を反映しているし、特にこんな大事なところに、王族のお墓に入れるようなものなんですから、かなりしっかりと選びますでしょう。その人物が愛用していたもの、またはその時代ならではで高品質なもの、宗教的思想的に意味のあるものを副葬品にするはずですよね。

なかなかいいたとえが浮かびませんけど…

例えば、火の鳥というモチーフはものすごく昔からあるモチーフですけど、手塚治虫さんが書いた「火の鳥」ってありますね。それまでの火の鳥とは違いますよ。よりデフォルメされ擬人化した表情の火の鳥です。
この「手塚さん型火の鳥」が、とあるお墓から発見されたとしますよ?そうしましたら、少なくとも手塚さんが火の鳥が描かれたのは1954年からなので、このお墓は1954年以降のものだろう、とそう推理するでしょう。

「あとから入れたんじゃない?」ということはできますけど、100年ほど前の人のお墓に、あえていれますかね??なんかおかしくないですか???

…小杉先生はそんなことをおっしゃりたいのかな、と思いました。私も同感です。

日本美術、仏像、古代史に興味のある方には、特にお勧め!
少々長くなってしまいましたが、ほかにも目からうろこなお話が、とても分かりやすくかかれています。
ぜひ、そのあたりにご興味のある方で未読の方は是非読んでみてください!すごいおもしろいですよ!
それまでなんだこれ?と思っていたものが、そういう意味だったのか!となります。すごい楽しいです。

少々余談ですが、実は小杉先生は、画家として高名な小杉放菴の息子さんなので、絵もデザインも上手。このカバーデザインの原案もご自分でされてるそうです。説明する為のイラストも先生の自筆です。

『妖怪退治伝』展@国立公文書館、観に行ってきました!


国立公文書館今年は、できるだけ時間をとって歴史系の展覧会も足をのばすぞ!…が今年の抱負のレキベンです。

遅ればせながら新年あけましておめでとうございます!

そんなわけでして、さっそく昨年からチェックしておりました『妖怪退治伝』@国立公文書館にいってきましたよ。

この国立公文書館、知らないという人も多いかもしれません。

「独立行政法人国立公文書館は、国の行政機関などから移管を受けた歴史資料として重要な公文書等を保存管理しています。当館は、その保存実務から一般利用まで広く事業を行うことにより、歴史資料として重要な公文書等の適切な保存と利用を図ることを目的とした施設です。」(HPより引用)

その名の通り「公文書を保管管理し、公開する」役割を持っている機関なんですね。
竹橋駅の近く、国立近代美術館の隣にあります。意外と一般の方には利用する機会もないかもしれませんが、誰でも利用できるんですよ!

年に何回か企画展をするんですが、あくまでも、保管しているものの中からちょっと角度を入れて紹介するだけなので、地味と言えば地味。でも、貴重な本物を間近にみることができるというのはいいですよ。特に江戸時代以降から現代にかけての史料を垣間見るには最適な場所ですね。

しかもなんと、企画展は無料!
ありがたいですよね。
企画展さて、私が見てきたのはこの「妖怪退治伝」です。

妖怪退治ですよ!

なんか、いいですよね!心惹かれます。

子どものころから怪物や妖怪が大好きな私としては、見逃せません!

土蜘蛛退治

早速こちら!有名な「土蜘蛛退治」の場面の絵です。

こちらの書物は『源氏一党志』(1846年版)の挿絵。なんとこの挿絵は、あの葛飾北斎です。通りでかっこいいですよね!ほんと北斎ってうまい!

ところで。

日本の物語の中で、『妖怪退治』譚のヒーローとして定番な人たちってのがいます。本企画展はその定番な人たちを中心に構成してます。

まず最初は、ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコト。

次に、大ムカデを退治し、平将門を追討した俵藤太こと、藤原秀郷(ひでさと)。
平将門と俵藤太三番目に、土蜘蛛退治、鬼(酒呑童子、茨木童子)退治で有名な源頼光と、頼光四天王。

四番めは、すさまじすぎて鬼以上と言われた源為朝(ためもと)。為朝は頼朝の叔父さんですが、伝説多すぎな人。

五番目は、鵺退治で有名な源頼政(よりまさ)。頼政は源三位(げんさんみ)と呼ばれた文武両道な人で、以仁王とともに平家への反旗を翻し自害した人です。

そして六番めは、武蔵坊弁慶。なんで弁慶?妖怪退治したっけ??って感じですが、こちらも為朝と同様に、すごすぎたのでみたいなことで入ってるみたい。

そして最後は、大森彦七。この人は一般的にはあまり知られていないと思いますが、南北朝時代、北朝に味方し、南朝の名将楠木正成を打倒したという伝説のある人。楠木正成の怨霊である鬼女退治のエピソードで、最後に入ってきたみたいです。

なんでかな…^^;;。4番めと6番目。本人が超人だった、ということで入ってしまってますけども、いいのかしら。

妖怪退治の人って、まだほかにもいるんじゃないかな。特に江戸時代は妖怪本がもてはやされたわけだし。
江戸時代中期の『稲生物怪録』(稲生平太郎という武士が一か月の間妖怪たちと戦ったという事件を記録したもの)とか、最適だと思うんだけど。写しでもいいからみたかったなあ。

それはともかく、もう一つ気づいたのは、『妖怪退治』をしている人に源氏が多い、ということ。特に本企画展で取り上げている人たちは、スサノオノミコトと俵藤太以外は全部源氏です(大森彦七も本姓は源氏)。わざとなのかなあ。ううむ。

***
さてそんなこんなですが。

古文書自体、普段あまり観る機会ってないと思います。
ぜひ、一度ちょっとでも興味のある企画展のある時に立ち寄ってみてください!近代美術館に行ったついで、でもいいかもしれません。

国立公文書館
http://www.archives.go.jp/exhibition/

 

シンポジウム「埼玉古墳群の謎~東国を治めた古代の豪族~」(1/25)開催


早いもので、もう12月。今年もあと28日ですねえ。早いなあ。

そんなこんなで、もう来年のイベント情報です。

古代史好きにはたまらない、こんなイベントが開催されるそうですよ~!

シンポジウム「埼玉古墳群の謎~東国を治めた古代の豪族~」
日時:1/25 場所:大宮ソニックシティ
http://www.sakitama-muse.spec.ed.jp/

申し込みは、往復はがき。多い場合は抽選。
最近、古墳時代の魅力に改めてはまっているムトウとしましては、これはぜひとも行きたい!
最近抽選になって当たったためしないんですけど、ダメもとで早めに出そうっと。

猫はいつ日本にやってきたのか~古墳時代の動物事情~


 

素人なりに歴史を少しでもちゃんと学びたいと思い、尊敬する大編集者・Yさんが立ち上げられた出版社・敬文舎さんが主催する「日本歴史文化講座(ヒスカル)」の講座に通っています。

古代の日本は大好きなんですけど、例のごとくつまみ食いで、ちゃんと勉強したことのない私にとっては、専門的な内容も含めてわかりやすく説明してくださるので、毎回とても勉強になっています。

さて、昨日は、講座の聴講生の皆さんとYさんと、講師のH先生を囲んでお茶をされるというので、そこに混ぜていただきました。

そこでも先生がいろいろ話をされていて楽しかったのですが、中でも『古墳時代の動物事情』ともいうべきお話がまたおもしろかった!

講座でも、馬や牛が古墳時代にどうだったか、というお話はよく出てきていました。魏志倭人伝には牛馬は倭の国にはいない、という有名な記述があるそうなのですが、それも、断定はできません。

日本最古の痕跡としては、箸墓古墳の周壕から馬具が発見されたそうで、これが4世紀初頭(300年代)。箸墓は卑弥呼のお墓じゃないかと言われている古墳なので、魏志倭人伝の記載とはちょっと食い違う感じもしないでもありませんが、少なくとも、これくらいには日本に馬はいた、と言っていいと思われます。これ以降の古墳からは、馬の骨や馬具がよく出てくるそうですしね。

聴講生のおひとりが、「馬はもちろん、犬は古くからいることはわかってますけど(むとう注:縄文時代の遺跡からもよく出てきますからね)、猫はいつから日本に来たんですか?」と聞かれると、

「猫はよくわかっていないんですよ。発掘していても猫の骨というのはあまり出てこない。でてきたときしてももっと新しい時代の骨なんじゃないか、と考えられてたんですね。というのも、埴輪で、猫とか出てこないんでね。犬とか馬形なんかはありますけど…。文献で、猫は平安時代には出てきますから、おそらく奈良時代終わりくらいには確実にいたと考えていいと思うんですけど、…っていう定説だったんですけどね。
実は数年前、古墳の中から須恵器、杯身(蓋付きの皿)の内側に、猫の足跡と思われるものが発見されたんですよ」

「タヌキとか、そういうのではなくてですか?」

「動物の専門家が見ても多分猫だろうってことなんですよね。そうなると、この遺跡は6世末から7世紀前半の古墳だったので、それくらいにはもう猫がいたんじゃないか、となりますけどね(笑)」

ええええ! 須恵器に猫の足跡ってめちゃくちゃかわいい!
なんかすごいピースフルじゃないですか?!

ディテイルを知りたくて、早速、ネットで検索してみると、ありましたありました。

兵庫県の姫路市にある、「見野古墳群」(6世紀~7世紀中ごろ)の横穴式石室から出土したんだそうですよ。発見したのは立命館大の学生。杯身(つきみ)と呼ばれる食器〔直径15センチ〕の内側に、白く丸い肉球らしき跡が5つ並んでいるのを発見したそうです。

ネットに残っているニュースの断片をいくつか見ますと、どうもその肉球の周りには爪のあとがないので、猫と特定していいんじゃないか、って感じになってるみたいです。猫は爪の出し入れができますからね。

いや、でも実際いたんじゃないかと思うんですよね。

だって、馬とか牛とか、船で運んでくるのに、猫がいないなんてなんかおかしい。

ご存じのように、猫はエジプトあたりにいるリビアヤマネコを家畜化したものと言われています。エジプトでは神としても尊崇されて大切にされましたが、その後徐々に世界中に広まりました。ちなみにちょっと調べてみますと、紀元前2世紀ぐらいにはお隣の中国に猫がいたことはわかってるんだそうです。

また、猫がさらに一般的に広がったのは7世紀くらいみたいですね…。航海時ネズミ駆除のために猫を乗せる、ということをしてたんだそうですが、それでさらに広まったみたいですね。

すると、この古墳の時代に該当しますねえ。

こりゃあ、いましたね。間違いなく。

20131030

 

『洛中洛外図』が一同揃い踏み!秋の東博特別展は必見です。


『洛中洛外図』は、戦国期、16世紀初頭から制作された屏風絵です。

京都市街地(洛中)、郊外(洛外)の風景や風俗などを描いたもので、当時の文化を知る上でも貴重ですし、建築史、美術史、社会史などあらゆる学問の上で研究されている貴重な美術品であり史料です。戦国期から、江戸時代にも多く制作されましたが、その中でもとくに有名なものが7点あります。

なんとその7点が、すべて揃ってしまうという展覧会が、10月から東博で開催されますよ!!ひゃ~!

ちなみにその7つというのは以下のラインナップです。

国宝『洛中洛外図屏風 上杉本』(狩野永徳筆)16世紀(山形・米沢市上杉博物館蔵)~11/4
重文『洛中洛外図屏風 勝興寺本』・17世紀(富山・勝興寺蔵)~11/4
重文『洛中洛外図屏風 歴博乙本』・16世紀(千葉・国立歴史民俗博物館) ~11/4
重文『洛中洛外図屏風 舟木本』(岩佐又兵衛筆)・17世紀(東京国立博物館蔵)
重文『洛中洛外図屏風 歴博甲本』・16世紀 (千葉・国立歴史民俗博物館) 11/6~
重文『洛中洛外図屏風 福岡市博本』・17世紀(福岡市博物館蔵)11/6~
重文『洛中洛外図屏風 池田本』・17世紀(岡山・林原美術館蔵)11/6~

まずは、なんといっても、織田信長が上杉謙信に送ったものとしてあまりにも有名な『上杉本』、国宝!
これを東京に居ながらにして見られるなんて、嬉しすぎます。
そして、おお、池田本も、ね、ありますよありますよ……。こういうのを並べて見られるってのは本当にありがたい話です。

と思ったら、……ちょっと待って!!

展示替えがあるじゃないですか!
しかも私が見たい上杉本は前期、池田本は後期と別れてる~~(涙)。まじすか~~(泣)。二回来いと、そういう話ですか。

うううう。そんなあ。

でも、行くしかないかなあ。

『京都―洛中洛外図と障壁画の美』展@東京国立博物館
会期:2013年10月8日(火) ~ 2013年12月1日(日)
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1610

レキシの3rdアルバム『レキミ』、最高です!


歴史ファン+音楽ファンとして看過できないアーティスト「レキシ」。
すみません。今まで黙ってましたが、ファンなのです。ライブも何回かいってます!はい!

硬派な歴史ファンのみなさんは「??」かもしれません。でも、歴史の楽しみ方ってこういうのがあってもいいんじゃないかな、と強く思うのです。
もちろんお好きな皆さんは、何をいまさらとおっしゃるかもしれませんが、3rdアルバムがこれまたかっこいいので、こちらでもご紹介したいと思います。
レキミ『レキミ』。

この「レキシ」は、もとSUPER BUTTER DOGのキーボードだった池田貴史さんこと池ちゃんのソロユニットです。とにかくファンキーで音楽センス最高で、おもろい人なのですが、その池ちゃんが「歴史好き」ゆえに始めたのがこの「レキシ」。
いけちゃん(今回の池ちゃんはとにかく姫押し)

『…池田貴史のソロプロジェクト。歴史好きの池ちゃんが繰り出す「歴史縛りファンクネスバンド」。 毎回豪華なゲストを迎えポップでグルーヴィーな作品を送り出している。ライヴではさらにMCも必見。』(HPより抜粋)

音楽はもう間違いないのですが、また歌詞がたまらんのです。とにかく歴史です。タイトル見てもらえばわかるかな~

01.大奥~ラビリンス~ feat. シャカッチ
02.姫君Shake! feat. 齋藤摩羅衛門 (斉藤和義)
03.武士ワンダーランド feat. カブキちゃん (Salyu)
04.ハニワニハ
05.恋に落ち武者 feat. 足軽先生 (いとうせいこう)
06.古墳へGO!
07.甘えん坊将軍
08.君がいない幕府 feat. お台所さま (真城めぐみ from HICKSVILLE)
09.LOVE弁慶
10.墾田永年私財法 feat. 田んぼマスター (山口 隆 from サンボマスター)

参加しているミュージシャンもすごいですよおお。これまで参加した人では、椎名林檎、Rhymester、サンボマスター、安藤裕子、野宮真貴、中村一義、忌野清志郎、スネオヘアー、斎藤和義、salyu、ハナレグミ、いとうせいこう…etc

今回もアツイ!墾田永年私財法とか、もうすごい。サンボマスターのアツさが「墾田永年私財法」をうたい上げます。私は今回この曲が一番好きかも。

ちなみにこんなPVも。

「姫君Shake!」 feat. 齋藤摩羅衛門 (斉藤和義)
https://www.youtube.com/watch?v=SdgDFHU_DFs
あはは!あほですわ~!

ちなみに私はこの曲が好き。2ndアルバムのですが、
「狩りから稲作へ」 下剋上RAP Version (feat.足軽先生 vs MC四天王)https://www.youtube.com/watch?v=7-jcddZU2BI

いやあ、ほんと。最高です!
ちなみに12月のライブは何としても行きたい!

埼玉で発見された「三角縁神獣鏡」!!


リハビリもかねて、近場で公開中の「三角縁神獣鏡」を観に行ってきました。
三角縁陳氏作四神二獣鏡『三角縁神獣鏡』というのは、古墳時代前期(3~4世紀ごろ)の古墳から出土する鏡で、全国で約560面発見されています。神事に使われた鏡で、当時の大和王権から、各地の支配者へ配られたもの。この鏡が出土したということは、当時の大和朝廷とその地域の支配者の間に結びつきがあったことを示しています。

近畿地方、九州地方に圧倒的に多く出してますが、関東でも茨城県1面、千葉県2面、群馬13面、神奈川2面が発見されていますが、この発見は埼玉県下では初でした!!

こちらの鏡には、4柱の神と竜と虎が描かれていたのと、銘文に「陳氏が作った」と会ったことから『三角縁陳氏作四神二獣鏡(さんかくぶちちんしさくししんにじゅうきょう)』と名付けられたとのこと。
裏面いや~、それにしても立派なものでした!
自分の生まれ故郷である東松山市から、まさかこんなものが出てくるとは…。ちょっと感動。

実際、東松山市は派手な観光資源があるわけではないですが、実は古墳は500基近くありますし、鎌倉時代の遺跡などもかなり多いんですよね。渋い歴史マニアには結構お勧めなんですけども…。

ともかく。この鏡が出たことで、この地域に、大和王権とつながりのあるなかなかの力を持つ支配者がいたことは、改めて実証されたような感じです。

ちょっと、渋すぎるので、なかなかぜひにと言い切れませんが、関東の考古学の興味のある方はぜひ!
東松山市埋蔵文化財センターにて8月14日まで公開してます♪
#でもそ日祝日は休みって…^^;。普通の人いけないですよねえ。ううむ。

*こちらの毎日新聞の記事もご参考に!
http://mainichi.jp/feature/news/20130522ddlk11040231000c.html

戦国期、日本の最大輸出品は「傭兵」「奴隷」だった!!?



英雄たちの戦場」ではなく「雑兵たちの戦場」から見る戦国時代の実像!
入院中というのは、体力と同様に思考能力が落ちてるので、ひたすらただその世界を楽しめるような「小説」が向いています。私はひたすら池波正太郎さんの『剣客商売』『鬼平犯科帳』を貪り読んでおりました。

名人・池波さんの小説は、まったく読者に負担を与えません。読者はただその世界に遊べばいいのです。何の心配も思考も必要なく…。

二週間の入院を終え退院したものの、正直言って体はまだもとどおり、というかんじではないので、無理は禁物。原稿を書いたり、企画書を書いたりはちょっと無理だろう、と思って、ここ数日は「本読み」に徹しようと決めました。
入院時よりはだいぶ頭もクリアです。ちょっと「お勉強」な本、テーマは「戦国期」。普段ですとなかなかじっくり読めないような本。こういう時にこそがつっといっとくといいですよね!

そんなわけで、かねてから気になってはいたものの、ちょっと手が出ていなかった名著『雑兵たちの戦場~中世の傭兵と奴隷狩り~』(藤木久志著)から。
zouhyou20130705
うお~~!なんでこの名著をもっと早く読んでおかなかったんだろう!!私のバカバカバカ!と叫びたくなるような素晴らしい一冊でした。

すごくざっくり言ってしまうと、戦国時代を、「武将」という視点からでなく、実際には絶対多数であった「雑兵」から読み解く、という本です。
#雑兵というのは、武士(士分)ではなく、その武士に奉公している若党・足軽と呼ばれる「侍」、またその下で中間・小者・あらしこと呼ばれる「下人」、夫(ぶ)・夫丸(ぶまる)と呼ばれる百姓、また得体のしれない商人・山賊・海賊のこと、と著者は定義しています。

これがまあ、目からうろこなわけですよ!

戦国時代というと、下剋上の時代というイメージで、戦に明け暮れる武将たちの時代、という印象ですが、一方で、天災が相次ぎ、凶作と飢饉が恒常状態になっていた時代でもあるんですね。というか、飢餓状態が普通という時代だったからこそ、社会システムが崩壊し下剋上が可能になった、というべきなんでしょう。

つまり、「天下取り」「領土拡大」のための戦、という側面はもちろんありますけど、特に雑兵たちにとって「生きるため」「食う」ための戦だった、と言える、というのです。

まず、著者は、当時戦場ではヒトやモノの略奪が盛んであったことを明らかにします。そしてそれは戦争の目的であり、また正当な行為として見られていたことを、豊富な事例をもとに示唆します。

なるほど、「人や物の掠奪」があったのは、なんとなく想像範囲内でしたが、公的に認められている「正当な行為」だとは知りませんでした。
特に、「人の掠奪」。つまり「奴隷狩り」です。このことも正当な行為として認められていました。こうして奴隷となった人たちはどうなったかというと、身代金を払ってくれて、元に戻れる人もいれば、そのまま奴隷として生涯を終える人も多くいました。

また、日本人奴隷は盛んに東南アジアなどに輸出されていたという衝撃的事実も描かれます。その奴隷の中でも武術に優れた男たちは、傭兵としてアジア諸国、ヨーロッパ列強の間で重宝されていたそうなんです。

えええええええ!
本当に知らなかった!!!

いや、確か昔日本史の授業で、秀吉がキリスト教を禁教しようと思ったきっかけが、教会が日本人を奴隷として海外に連れ出していることを知って、まずいと思ったから…みたいな話を聞いたことがありましたけど、それどころの話じゃないわけですよ。

第一、秀吉という人は、明らかにこの「雑兵」階層出身の人です。身の回りにも人攫い(人取り)や掠奪の被害に遭ったことはあったでしょうし、自分でもやったことがあったでしょう。

うう~ん。目からうろこだなあ。

なんていって、実は、上記のようなことは、本書の内容の発端でしかありません。

しかし、これだけ違う土台から、戦国時代を見るとがらりと見えてくる風景が変わってしまいます。新鮮です。

一度読んだだけではちょっと頭が追い付かない感じなので、また何度か読まなくちゃ。