【2016沖縄旅】①「琉球」と「沖縄」、二つの呼び方、どちらが古い?


告白。沖縄への思い
久しぶりに大好きな沖縄に行ってきました!
今回の旅は、15年余り通い続けた中でも、ちょっと特別な旅だったように思います。

大好きな沖縄を、あくまでも「プライベートな面での心のオアシス」として保存しておきたかった私は、仕事で沖縄の本をつくったことはほとんどありません。例外的に一冊だけ、沖縄味噌のレシピ本を作ったことがあるだけです。
「仕事」はシビアな世界ですから、大事な沖縄をそこに絡ませたくない、とそんな気持ちがあったんですね。

しかし、そもそものことを考えてみると、私が沖縄に通うきっかけになったのは、間違いなく本来私が追い求めてやまないもの、『歴史と文化』ど真ん中への興味からだったのです。

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〔写真:ナカグスク)

まず、最初に度肝を抜かれたのは、「中城(ナカグスク)」の美しい石積みでした。全く予備知識がないまま、訪れた中城にすっかりはまってしまい、書店に直行。沖縄には「グスク」という城郭と聖地を足して二で割ったような、本州にはない素晴らしい遺跡があることを知りました。
そして御嶽(うたき)、ユタに代表されるような、濃厚な宗教世界に圧倒されました。

そして音楽。私はもともとソウルミュージックやロックが大好きでしたので、沖縄の音楽シーンは堪らなく魅力的でしたし、また、民謡も大好きになり、結局登川流で民謡を習うまでになりました。
さらに、もちろんもっとも魅了されたのは、沖縄に住む人たちでした。
大らかで茶目っけたっぷり。うちなーぐち(琉球語)がまたたまらなくいいかんじ。
通ううちに、尊敬するミュージシャンのねえねえ方に知り合うことができ、それでかわいがってもらうようになったもんだから、もう居心地良いったらないわけです。

いや~、ほんとどっぷりですよ!

ところが、今回の旅で、一つ自分の中で明らかに変化したことがありました。

「大事だからこそ、仕事でも、沖縄のことを書いたりしてもいいのではないかしら」

ここのところです。
今の仕事も、好きでやっていることです。いつも余裕なしでキュウキュウ言ってますけど、しかし、やはり好きでやっている仕事です。そのど真ん中で、もっと好きな沖縄に関して発言してもいいのではないかしら、と急に思うようになったのでした。

「琉球」と「沖縄」という呼び方

そんなわけで、仕事とはいいがたいですが、本HPでもちょっとまじめにトピックスを書き出していきたいと思います。
まずは、「琉球」と「沖縄」という呼び方について。意外となんとなーくで使っていますが、この呼称、いったいどういう違いがあるんでしょうか。

なんとなく、「琉球」のほうが本来の呼び方であって、「沖縄」は、いわゆる明治政府による「琉球処分」により、「沖縄県」になって以降の名称、と言った印象が強い気がします。それはそれで、間違いではないのですが、「沖縄」という名前も古くて、とても大切な呼称である、ということは意外と認識されていないような気がします。

まず、「琉球」ですが文献に出てくるのはかなり古いのですね。

636年『隋書』の「東夷伝」に「流求」とあるのが、最初です。その後、14世紀後半に明国によって「琉球」と表記すると決められ、それに周辺諸国が倣った、ということのようですね。

一方、「沖縄(おきなわ)」が文献に登場するのは779年、鑑真の伝記『唐大和上東征伝』に、「阿児奈波嶋」とあるのが最初のようです。

鑑真さんは、あの唐招提寺を創設した偉大なるお坊様で、皆さんよくご存じと思いますが、何と沖縄に漂着していたんですね!

『日本歴史地名大系』によりますと……

「同書によると天宝一二歳(七五三)一一月一六日に四船で蘇州の黄泗浦を出発し、同月二一日に第一船と第二船が同時に「阿児奈波嶋」に到着したとある」

とあります。

その読み方は、「アコナワ」「アジナワ」「アルナワ」と、諸説あるそうなのですが、歴史学者・東恩納寛惇さんは「島民の語音ウチナワを表記したものであろう」と『南島風土記』でのべておられるとのことで、つまり、もともとの住人は「ウチナワ」と言っていたということだと思われるのですね。

国際語としての名称が「琉球」

こういう現象は、現在でもたくさんありますよね。

たとえば、私たちは日本人で、自分の国のことを「二ホン」「ニッポン」と呼びますが、海外では自ら「ジャパン」と言いますね。それと同じ。

それと、数年前に、ミャンマーの友人に、軍事政権によって国名を変更されてしまったのは、いやじゃない?と聞いたことがあるんですけど、
「ちがうんだよ、ブーマと同じくミャンマーという国名も古い名前で、国内ではそう呼ばれてたから、政府が変更したわけじゃない。国際的な呼び方もミャンマーにするって宣言しただけだから、別に違和感ないんだよ」

へえ、そうなんだ!と驚いたことがありますが、あ、そういや日本だって二つの名前があるもんな~、いや、二つの名前どころか、中国語だとリーベンだし、タイ語だとイーブンか…いろいろありますね。

沖縄もそういうことと言えそうですね。

地元の人たちは、自分たちのことを「ウチナワ」と呼び、対外的には「琉球」と呼んだ。「琉球」という名前は外側から与えられた名前ですが、それはそれでいろんな国の人が分かってくれるなら便利でいいかな、という感じだったかもしれません。

そして、「沖縄」という漢字、これも当て字となるわけですが、これは、『国史大辞典』によると、

『「オキナワ」の宛字のうち、『おもろさうし』の「おにきや」は古い呼称とみられるが、ほかに悪鬼納・倭急拿・屋其惹などがある。「おきなは」と最初に表記したのは長門本『平家物語』で、初めて「沖縄」の文字を使用したのは新井白石の『南島志』である。』

とあります。こちらも、歴史がありますね。「おきなは」の表記は、13世紀初頭の平家物語にはもう出てくるんですものね。新井白石の『南国志』は1719年に書かれてますから、これも古いです。
(とはいえ、いっぽうでこの「沖縄」という呼称が日本サイドからの呼称として、広く一般的だったかと言えば、ちょっと疑問ですね。「琉球使節団」のように、「琉球」と呼ぶのが一般的だったように思われます…)

そう考えますと、琉球処分の後【沖縄県】としたのは、あながちおかしなことではない気がします。「ウチナワ」転じての「沖縄」であれば、です。
【琉球県】としなかったのはなぜか、琉球人のアイデンティティを奪うためか?!と鼻息を荒くする必要はなかったのかもしれません(私はちょっと鼻息荒くしてましたが;;)。
どちらも、うちなーの人々にとって、親しんできたであろう国名なのではないかと思うからです。

とはいえ。様々な呼び方の中で、やはり私は「うちなー」が最も好きです。

沖縄の友人や、師匠が語る言葉の中に出てくる「うちなー」という言葉が好きで、私もこの呼び方を好んでいましたが、この優しい音が沖縄の本質に近いような気がしていたからかもしれません。ちょっと後付けですけども^^;。

(むとう)

【2015青森旅】④やっぱり、かっこいい。縄文デザイン!!


竪穴式住居。

いいですなあ。

思い起こせば、私は小学生時分、縄文人生活にあこがれる少女でございました。
昔住んでいた家が、縄文時代の住居跡の上だったので、ちょっと掘ると縄文時代の土器のかけらが結構出てくるので、その縄目文様や造形を見て、シンプルに「すごいかっこいいなあ」と思ったんですよね。

それで、社会科の図録なんかに出てくるドングリのコッペパンを再現してみようとしたり、地層から粒子の細かめの粘土をこねて乾かして、焚き火で焼いてみたりして。

そのほとんどが失敗に終わりました。でも楽しかったなあ。

縄文人、すごい!って憧れたなあ。

今回、三内丸山遺跡を訪ねてみて、その時のことを鮮明に思い出しました。

遺跡の復元をしている野外エリアから、手前の建物「縄文時遊館」に戻ります。様々な施設の集合体、と言った感じなんですがその中に「さんまるミュージアム」という博物館があります。
三内丸山遺跡の出土品を展示してあるみたいなんですね。

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こちらが入口!

ポイントポイントに、こんな感じのリアルな人形さんがお出迎え。リアルなんだけどちょっとデフォルメされていて、コワくないです。とても可愛い。
#そして、一緒に復元されている犬、いかにも縄文犬(天然記念物柴犬保存会系柴犬)ですね!

中に入りますと、また展示方法がおしゃれですよ~~。東京国立博物館の法隆寺館みたいなライティングで、展示物が暗闇に浮かび上がる、みたいな展示です。

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でた~!
十字型土偶@重要文化財!!
かっこい~~!

板状で十文字型のこういった土偶は、三内丸山遺跡から1600個ほど出土したんだそうで、顔、胸、へそが表現されています。そのほとんどが盛土遺構で、壊された形で出土しているため、何らかの祭祀で用いられたのではないか、と考えられているそうです。

そして、縄文時代界のアイドルともいうべき、こちら!

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縄文ポシェット@重要文化財~~~!!!

こちらがどうして貴重かと言いますと、「縄文時代の遺跡から出土した編組製品で立体的な形が分かる全国唯一のもの」(三内丸山遺跡HPより引用)だからです。

それにしても、確かにこういったものがよくぞ残った!って感じですよね。奇蹟ですよ~~!

ちなみにこちらの素材は、「ヒノキ科(ヒバ、スギ、ヒノキ、アスナロがある)に属する針葉樹の樹皮を素材としている」(HPより引用)そうです。4000年以上残ってきた、なんて、最強に「丈夫」ですよね。中からは半欠けのクルミのカラが出てきたんですって。
こういったポシェットを腰に括り付けて、採集した木の実なんかを入れていたんでしょうか。

こちらは、全然知らずにみていましたが、特別公開だったみたい。ラッキーですね!!

いや。

それにしましてもなんですけどね。今回改めて思いました。

小学生の私、間違ってない!

やっぱり、デザインかっこいいですもん。縄文デザイン!

やっぱ、長年憧れてきてよかった。
そしてそのトップランナーと言うべき三内丸山遺跡にこれて、本当によかったです!

【2015青森旅】③今も世界のどこかにある風景に見えてきた


1500年もの間、人々が住み続けた場所。
それが三内丸山遺跡なんですね。すごいなあ。

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さて、先ほどの6本柱建物の前には、大きくて長い建物が復元されています。

「(略)長さが10メートル以上のものを大型住居跡と呼びます。三内丸山遺跡では最大のもので長さ約32メートル、幅約10メートルのものが見つかっています。集落の中央付近から見つかることが多く、集会所、共同作業所、共同住宅などの説があります。」
(特別史跡三内丸山遺跡HPより引用)

茅葺屋根が何とも美しいですが、縄文時代にもこんな美しい茅葺があったのでしょうか。

ミャンマーの山岳地帯に住む少数民族が暮らす「ロングハウス」みたいな、または環太平洋の海洋民族にみられる集会所みたいな雰囲気ですよね。

内部に入ってみますと…

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かっこいい~!!

広々としてますね。そして長い!
この復元された大型竪穴式住居が何メートルかは、ちょっとはっきりわからないんですが、30メートルくらいありそう。

この大きな竪穴式住居を中心に、周囲にはいくつもの竪穴式住居が復元されていました。
20151011-3何だかかわいらしい家ですね。
地面と地続きな家、と申しましょうか…
「大地に抱かれている家」というような。
20151011-5入口はこんな感じです。
腰をかがめて入っていきますと…
意外と広い!
4・5畳くらいはありますし、屋根の高さもそこそこあって、身を屈める必要はありません。
私は159センチなので、ちょうど縄文人男性の平均くらいですから、子の高さがあれば十分だったでしょう。
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屋根組はこんな感じです。
縄と組み方で持って組んでるんですね。釘みたいなものはなかったのかな?
ちょっと調べてみると、出土品の中に釘が出ることもあるみたいなので、部分的にはそういうものを使っていたのかもですね。

ちなみに、こういった復元・竪穴式住居は、ワークショップのような形で、一般の人が力を合わせて造ったみたいですね。写真を撮るのを忘れてしまったのですが、名前を刻んだ大きな木札みたいなものがたくさん置いてありました。羨ましい!

それにしても、なかなか居心地のいい空間でした。4人家族で住む、なんてことになるとちょっと狭いけど、一人か二人で住む分には結構いいかもですよ。半地下ですから、暑さも寒さもそこそこ和らぎそうですし…
あ、でも冬は厳しそうだなあ。

とはいえ、この小さな竪穴式住居で寝起きをして、イベントや会議、共同作業なんかは集会所でやればいいんですから、必要十分かもしれませんね。
それに、こういう風に暮らしている人々は今もたくさんいます。

この復元された竪穴式住居群は、何だか今も世界のどこかにある風景に見えてきました。

(続く)

【2015青森旅】②憧れの三内丸山遺跡へ!!


カモメさんたちの鋭い視線に、ちょっとビビってペコペコしながら、駅前に戻ってバスに乗ります。

バスで30分ほど郊外へ行くと、ちょっと手前に有名な県立美術館、そしてその先に三内丸山遺跡はあります。

三内丸山遺跡には入口に「縄文時遊館」という博物館があります。全体の写真を撮るのを忘れてしまいましたが、とても素敵な建物です。

エントランスを入りますと…

20151006-1大きな縄文土器のレプリカがどーん!

おおおおおお!
テンション上がります!

さらに、縄文時代の衣装を着てみてね、と置いてあります。無料!
それは着るでしょう!
私も早速着てみました。素晴らしいですよ、小道具にお魚のレプリカまであって、選べるし。ちょっとおしゃれに腰ひもは2本づかいにしてみましたよ♪

いやあ、嬉しい!

それにしても気持ちのいい施設です。デザインも素晴らしいですし、びっくりすることにほとんどお金使いません。
三内丸山遺跡は、なんと無料で見学することができるんです。

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建物を抜け歩いていくと芝生が見え、その先に茅葺の建物が姿を現します。

おお、あれは、三内丸山と言えば……、な、あれじゃないの?!

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見たことある~!
「大型掘立柱建物」(別名六本柱建物ともよぶのかな?)と言うんだそうですが、櫓のようにも見えます。

この復元には、直径1mに及ぶ6本の大きな柱穴が発見されたことから、学者さんが推定して作ったとのことですが、こういうかたちではなく、「板葺の屋根のある建物」だった、「柱だけが佇立しているもの」だったなど、諸説あるようです。
しかもこの「大型掘立柱建物」は、この集落の中心部に東西に分かれて何棟もたてられていたことがわかってるんだそうですよ。すごいなあ。

この三内丸山遺跡ですが、今から約5500年前~4000年前(縄文時代前期中頃~中期末葉)の大規模な集落跡です。
なんと「約1500年」もの間にわたって定住生活が営まれていた、というわけですよ。ひゃ~!

長いですよ~、この1500年て。
そこまで同じ土地に、大人数のひとが住み続けるというのは、並大抵なことではありません。

…たとえるならば。
京都で見てみましょうか。

京都という土地は古くからの都ですが、都になったのは794年の遷都としますと、2015年までを考えましても1221年です。いえ、これでも十分にすごいことなんですけどね。それより300年ほど長いんですから…
#もちろん人口の規模が違う!と言われたらそれまでなんですが、それはちょっと置いといて…

この土地は、今はやりの言葉で言えば「サステナブル」な集落だった、と言えるかもしれませんね。人口はそこそこ増えたり減ったりはあったでしょうが、この土地にそれほど長い間住み続けることができた。それは、それだけの資源を、継続して得ることが可能だったから、とも言えます。

(続く)

【2015青森旅】①青森港。カモメの目は鋭かった


新卒で入った出版社で、最初に配属されたのは営業部でした。
小さな出版社でしたので、営業部は3人だけ。部長一人の部員二人、しかも新卒。

その新卒二人で、全国を二つに分け、まるで飛び込み営業のように全国を廻っていたのですが、その時、青森は私の担当でした。

いつも青森空港に降り立ち、青森駅のほうへとバスでむかうんですが、左手の方に「三内丸山遺跡←」の交通標識がでるのを、涙を呑んで見送ったものでした。

それから、苦節ウン十年。

とうとう、憧れのかの地へ行ける日が来たわけですよ~!

うん十年前になかったもの、それは新幹線。便利になったもんだ!
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新青森駅で在来線に乗り換えて、青森駅へ。構内には青森といえば「ねぶた」ということで、こういうのがいろいろ置かれてまして、いきなりテンション上がります!

まずは、おなかを膨らまそうということで、駅近くのお寿司屋さんへ。同行の友人Sちゃんの情報網を駆使して、こちらのお店をセレクト!
20150927-2駅から歩いて10分くらい。ちょっとおしゃれなお寿司屋さん。
入ってみますと、お店の方も親切で、いいかんじです!せっかくですので、カウンターにて。

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握りのランチをいただきました!2100円だったかな??
どのネタも大振りで、新鮮でおいしかったですが、特にホタテの貝柱とウニとマグロが絶品でした!さすが、産地だなあ。

いやあ、ほんと。いいスタート切りましたよ!

すっかり調子の出てきた二人。

三内丸山遺跡に行くバスの時間までちょっと間ができたので、青森港のほうへと向かいます。歩いて5分くらい。
懐かしいなあ。
昔出張で来たときには、午前中に主要書店を廻って、13時くらいの盛岡行きにのらなくちゃいけなかったので、観光する時間なんてないんです。そこで唯一見ることができたのがこの青森港。
当時、そこには巨大なホタテガイの貝殻の山がそびえたっていて度肝を抜かれたものでしたが、現在はそんな面影はなく、物産館アスパムという施設があったりしまして…

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なぜかピラミッド形。
なぜだ…。こういうたてものって四角のよりだいぶお金かかりそうだけど…
あ!ひょっとして!??
貝殻の山と同じような形だってことは!!??
……たぶん、関係ないですね。

そしてその前方には、青森港が広がります。
だいぶきれいになったなあ、という印象ですが…

あ、かわいい。
カモメがたくさんとまってますよ!

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プリッとしたお尻が可愛いわあ、なんて言いながら近寄って写真を撮りまくりましたが、レンズを通してみたら…

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殺し屋みたいな目をしていてビビりました。

野生を舐めちゃいけませんね!

(続く)

土偶を観に行く旅もいいな…『縄文遺跡ガイド~北海道北東北~』/インテリジェント・リンク編


縄文時代と一口にいうと、鎌倉時代、室町時代と並ぶような時代区分に聞こえてしまうかもしれませんが、それは大きな間違いです。

縄文時代は、紀元前〔BC〕1万2・3000年から、紀元前〔BC〕 300年までのことを指します(諸説あり、国史大辞典参考)。

さらりと言いましたよ。

しかしよく考えてみてください。

日本列島の歴史のなかで、約1万2000年間も、「縄文時代」ですからね?!

その後続く弥生時代は、紀元前3世紀ごろから紀元後〔AC〕 3世紀ごろまでですから、だいたい600年間です。

何でしょう、このバランスの悪さ。

その後の日本の歴史が1700年ですからね、弥生時代と足し算しても2300年間しかありません。

12000対2300です。約五倍です。

このボリューム感の違いは、皆さん意外と気が付いてないんじゃないかと思うんです。しかし、ちょっと冷静になってみてみますと、時代の長さだけで言えば、日本を代表する文化は縄文時代の文化と言うべきかもしれませんよ。岡本太郎さんの直観は大変正しい。

そんなこんなで前置き長いですが、仕事が煮詰まると、脳内旅行をし始めるのが私の習性。今日はふと、この本を手に取りました。

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先日見てきた「マスク展」@庭園美術館に触発されましたね。無意識でしたけど。

今回はフランスの博物館の収蔵品ですから、どうしても東アジアのラインナップが弱かったんですね。日本が世界に誇るプリミティブ・アートと言えば、そう「土偶」ですよね!!

こちらの図録は、トーハクさんで2009年に開催された「国宝 土偶展」のもので、当時、大英博物館で開催された展示の凱旋という意味合いもあったんですが、国宝指定されている三体、「縄文のヴィーナス」(茅野市棚畑遺跡出土)、「中空土偶」(函館市著保内野遺跡出土)、「合掌土偶」(八戸市風張1遺跡出土)を一度に観られるということで、ものすごく貴重な展覧会でした。

現在国宝に指定されてますのは、当時の三点に「縄文の女神」(山形市・西之前遺跡出土)、「仮面の女神」(茅野市中ツ原遺跡出土)が加わって、5体。

2009年当時も、この二体も、重要文化財としてラインナップされていて、もちろん見ることができました。

こうして、日本の素晴らしい原始美術を見てますと、やはりむくむくと、現地で観たいという気持ちが高まってきますよね。

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そこで、また手に取りましたのがこの本。

ずいぶん前に買って、行きたいところに付箋を立ててそのまま……(涙)。

北海道と北東北には、素晴らしい縄文文化の中心地ともいえる場所でしたので、三内丸山遺跡はじめ、見てみたい縄文遺跡はたくさんあります。

ただ、ちょっと気をつけなくてはいけないのは、意外と土偶現物はトーハクさんにあったりするんですよ。例えば有名な重文の遮光器土偶(つがる市木造亀ヶ岡出土。この本の表紙にレプリカが載ってますけど)は、トーハクさんにあり、たしか常設展でも観ることができます。

でも、やっぱり三内丸山遺跡かなあ。

恥ずかしながら、まだ行ったことないんです。昔、出版社の営業部にいたときに青森は担当地域だったので、何度も訪ねているんですが、空港から市内へ向かうバスでいつも標識だけ眺めて涙を呑む、ということをやっていました。

ああ、旅に出たい。夏の東北や北海道は、美しいですよね……。

沖縄の歴史を感じるのに最適!グスク巡りの前に必ず読むべし!『世界遺産 グスク紀行』/岡田輝雄著(琉球新報社)


私は、沖縄が大好きです。初めて行ったときから、なんともいえぬ親近感を覚え、休みが取れては沖縄へ通い、しまいには沖縄民謡を習ったりしておりました。

私が沖縄に惹かれてしまうのは、どうしようもなく肌に合う、ということもありますが、もう一つ、沖縄の文化がとても魅力的だからだと思います。

特に私が沖縄の歴史にはまるきっかけとなったのが「グスク」です。

グスク、というのは「城」の字があてられますが、城塞(城塞でないものも含むのでちょっと複雑)のことで、北は奄美地方から、南は八重山地方の琉球弧の島々に、200以上あると言われています。

沖縄の中世、グスク時代とも呼ばれる群雄割拠の時代がありましたが(12世紀~)、この時代に多く作られました。

今も、その美しい城壁が残されてまして、さらにいまも聖所として尊崇の対象となっていて、そういう意味では御嶽(ウタキ)と同質、みたいな感じですね。

そうそう、忘れもしません。
初めて行ったのは中城(なかぐすく)でした。

残念ながら写真がありませんが、そのあまりにも美しい城壁にびっくりしてしまい、すっかり興奮して、座喜味グスク、今帰仁グスクと続けて観に行ってしまいました。

ほんとうにもう、そりゃ美しいのですよ!

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こういう時に限って、いい写真を発見できなかったのですが、上の写真は数年後に訪れた、今帰仁グスクの城壁(一部)です。

グスクの魅力は、その石積みの美しさもさることながら、御嶽(うたき)が必ず場内にあるということかもしれません。もう、建物は残っていませんが、ここは「遺跡」ではない。過去のものではなく、いまも、魂がちゃんとあるような気配があるのです。

よく、有名な遺跡を観に行くと、その壮麗な石造建築にウットリしながらも、「ここにはなにもない。過去のものなんだなあ」と感じて、ちょっと物悲しい気持ちになるのですが、グスクにはそれがありません。現役バリバリです。

よく、仏像を動かしたり、修理するときに「御霊抜き」という儀式を行います。これは仏像に宿る仏さんに一度ほかに遷っていただく、という儀式です。修理が終わったり、元の場所に戻ってきたら「御霊入れ」をする、ということをします。
その時の「御霊」にあたるようなモノが、グスクにはいまも変わらず宿っているように感じるんですね。

それは、コワいような、でもあたたかいような不思議な感覚です。

以来、私は沖縄に行くたびに、グスクを巡るようになりました。世界遺産にも指定されましたから、年々整備が進んで、ずいぶん足下も歩きやすくなりましたが、まだまだ昔ながらのグスクも多くあります。

沖縄に入ったことあるけど、グスクっていったことないなあ、という方がおられましたら、ぜひ巡ってみてください!

歴史好きでなくても、なんとも言えない不思議でパワフルな空間で、とても魅力的です。

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そんな方や、もしくはグスクは行ったことあるけれど、詳しいことは知らない、という方に、心からお勧めしますのがこの一冊!

『世界遺産 グスク紀行』(岡田輝雄著)です!!

「紀行」なんて書かれてますと、ライトな感じがしますけれども、ものすごくちゃんとした内容の、学術的な本です。写真も豊富で、説明も丁寧。

グスクを通じて、沖縄の歴史の相当克明なことを知ることもできますよ!

私も、実は久しぶりに、沖縄に行きたいなあ、と思い、書棚を見ていてふとこの本を手に取って、改めて唸りました。すごい本です!

数年前、この本を読んで、もう一度有名どころのグスクを巡りましたが、何度も見てきたはずなのに、気づくことがたくさんありました。本当に深い見方ができたと思います。

ぜひお手に取ってみてくださいね~!

今年こそ憧れの装飾古墳「王塚古墳」を観に行きますよ~~!


昨年からずーっと言っていていてなかなか実行できず持ち越しておりますが、九州の装飾古墳を見て廻る、というのを今年こそやる!と年始に誓いました。

しかし、たいへん悩ましいのは、福岡のあたりと熊本のあたり、二手に分かれてガツンとある、というこの事実なのですよね。

一気に有名どころだけでも…ということはまず不可能。

10日ほどほど休みが取れれば大どころは廻れるかもしれませんが、さすがにそれは難しい。

熊本に行くか、福岡に行くか……。

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(写真;この表紙にありますのが王塚古墳(復元)です。めっちゃかっこいい!!)

より古いとされているほう(熊本)から行くのがいいかな~、と思ってましたが、ふと思いついて王塚古墳の春の公開日は決まったのかしら、と、古墳館にお電話してみました。

そうしましたら、ほぼ4月18・19日になると思います、とのお返事が!

おおおお~!そうなんだ~~!ひゃ~!!!

スケジュール表を見てみますと二泊三日なら行ける、カモ!?

「ほぼ」ということばがかなり気にはなりますが、これでちょっと調整してみよう!!!

##装飾古墳というのは、石室や石棺に装飾を施されている古墳のことで、5-7世紀、特に九州地方に特に多く作られました。関東にも結構ありまして、虎塚古墳が有名ですね。私はこの虎塚古墳を観に行ったことがきっかけで、装飾古墳の美にハッとさせられたのです…。

ちなみに、「装飾古墳データベース」というすごいサイトがあります。九博さん製作!ぜひ覗いてみてください。大変な労作です!

装飾古墳データベース
http://kyuhaku.jmc.or.jp/

ついに買ってしまいました!『歴史手帳2015』(吉川弘文館刊)


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数年前から、歴史ものの企画を担当させていただくこともあり、吉川弘文館さんの『歴史手帳』を買うかどうか、毎年迷っては、やめる、ということを繰りかえしてまいりました。というのも、これまでの歴史手帳は、わたしにはちょっと小さすぎて使いづらそうだったんですよね。

あまりにも充実した付録の数々は、あまりにも、あまりにも魅力的ではありますが、しかし普段使う手帳として考えますと、ちょっと二の足を踏んでいて、写真のようなトラベラーズノートブックシリーズを使ったりしておりました。

ところが、今年は、なんと60年ぶりの改定で、文庫サイズまで大きくなって登場したではありませんか~!!!

ううう、もうすでにトラベラーズノートの2015を買ってしまっていたので、本当に悩みましたが、……手に取ってみますと、わあ、もうやっぱりいいわ。買うしかないわ、と観念しました。

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(まずこの左ページの一寸二寸がセンチメートルとは微妙にずれてるところに、ハートを射抜かれますよね)

細かい話ですが、私が「おお!」となった付録は…
改定版の今年から新しく追加されたという「官職の唐名」「名数表」「異体字」など。これはもう理屈じゃなくみてるだけで楽しい。

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「近世宿駅一覧」「度量衡換算表」「国宝史蹟一覧」「官位相当表」「日本歴代表」なんかは、仕事でかなり使うことになると思います。これらはいつもはネットで検索したり、辞書でその都度確認したりしてるんですけど、手帳ですでにあるというのはいいな。外出時には絶対役に立つ……。

そして、やっぱり魅力的なのは、この週スケジュール表の右ページにある行事一覧ですよね。これは前からありますけど本当にすごい。
20141213-2楽しいなあ。

本当にこの手帳、楽しいですよ!

ここ数年使ってきたトラベラーズノートシリーズもシンプルでいいんですけどね。でも来年はこちらをメインに使うことにしようと思います。

この情報をもとに、旅の予定を立ててもいいなあ。ワクワク!

超ド級の聖地「沖ノ島」の国宝が出光美術館で見られます~!!「宗像大社国宝展」開催(8/16から)


百田尚樹先生の大ヒット作『海賊と呼ばれた男』が、いよいよ文庫版として再登場、一週間を待たずに100万部を超える売り上げを上げた、と小耳にはさみました。

この『海賊と呼ばれた男』の主人公、国岡鐡造さんのモデルは、皆さんご存知の通り、出光興産の創業者・出光佐三ですが、小説の中でもでてきますけども、この国岡さんこと出光佐三氏は、芸術に対する思いも強く、特に仙厓義梵のコレクターとしてあまりにも有名です。

もちろん仙厓の禅画のような絵画だけでなく、様々なものを集めておられましたが、それらを公開すべく作られたのが丸の内にある出光美術館というわけなんですね。

さて、その出光美術館で、なんとなんと!

「宗像大社国宝」展を開催するというじゃありませんか~~!!!

宗像大社と言えば、神の島、こと沖ノ島。

宗像大社の奥の院ともいえるような島ですが、この島は古代から現在に至るまで、とにかく超強力な聖地、といえると思います。今も原則一般人の立ち入りは禁止されていて、さらにいうと女人禁制を貫いておられるようです。

この沖ノ島には、一木一草といえど持ち出してはならない、という掟があり、それが功を奏したのかもしれませんが、祭祀で使われ、神様に捧げられた宝物がそのまま残されたいたのです。その数なんと数十万点。うち8万点が「国宝」に指定されています。

8万点ですよ!!????

信じられないほど大量ですよ!!!?

わけわからないですよね??!

…さて、そんな貴重な宝物(一部)が、東京でも見られるわけですよ~!出光美術館で、というのが、本当に納得、という感じがします。

それはともかく、一度拝見してみたかったので、もうワクワクが止まりません!

今年はトーハクさんでも国宝展を開催されますし、ほんと、堪らない年になりそうです!!

 

「宗像大社国宝展」
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/munakata_taisha/