muto の紹介

ありをりある.com編集長。アウトドア系出版社を経て、ありをる企画制作所を設立。編集者・ライターとして活動中。気になる分野は歴史・伝統文化・仏教・いろんな国のいろんな考え方など。好きな食べ物はあんことなす。趣味は三線弾きと剣道。

累計48万部突破。大人気シリーズ第9弾登場!長屋の新入りが登場、新たなる波乱が?!『本所おけら長屋(九)』/畠山健二著


大変お待たせいたしました!

畠山先生渾身の書下ろしシリーズ、『本所おけら長屋』の第九巻が、いよいよ本日発売になりました~!!

巻を重ねるごとに、パワーアップし続ける本シリーズ。ぐんぐん発売部数もアップ!
ついに大台の50万部も目の前に見えてまいりました~!
本シリーズを支えてくださってるのは、ご購入下さり、愛してくださっている読者の皆さんです。改めて御礼申し上げます。ぜひ今後とも変わらぬご愛顧のほどを……。

さて、今回ですが。
皆様のご期待に、存分に応えられるお作となっていると思います!!

また傑作でちゃいましたよ~!
担当者自ら、あえて「傑作」と言ってしまいます。ええ、もう。

今回も全部で五話。

第一話「まいわし」
「赤鰯(あかいわし)」(腰抜け武士という意味)と呼ばれる黒岩藩藩士と、藩主・津軽高宗の「武士の一分」とはいかに…

第二話「おてだま」
おけら長屋に新入り登場。30代半ばの女・お浅は、どこかつかみどころがない。そんなおり、お染が聞きこんできた噂とは……

第三話「すがたみ」
聖庵堂の医師見習い・お満の兄、木田屋の跡取り息子が花魁に恋をした?!忠義ものの大番頭が万松に相談を持ち掛けて……

第四話「かんざし」
晴れて左官の親方・文七と夫婦になったお糸。幸せいっぱいのはずなのに、溜息をついたりして様子がおかしい。勘違いしたお染は……

第五話「うらかた」
悪質な未払いで苦しむ文七を救うため奔走するおけら長屋の面々。八方ふさがりな中、不思議なところでお浅と繋がって……

いや、もうほんと。
どのお話も、本当に面白いですよ!!

でもあえて、個人的に特に好きなお話を上げるとしたら、ううう。悩みますが、第五話の「うらかた」でしょうか。いや、第三話の「すがたみ」もたまらない!

「すがたみ」は、特に女性にとってはたまらないお話なんじゃないかと思います。超売れっ子の花魁は、いかにもプロフェッショナル。働く女の意地と強さを持っていますが、その根底には、ある人への思いがあるのです。

それが、ですねえっ……!

あ、いけない、あまり話し過ぎるのはネタバレになってしまいますのでこの辺で我慢します。

「うらかた」は、もう、畠山先生にじゃないと書けないお作、まさに傑作だと思います。「おけら長屋」の魅力が存分に詰まった作品です。人っていいなあ、人情っていいなあ、そんなことを重ねて言いたくなりますよ。

そんなわけで皆様。

ぜひとも読んでみてくださいまし~!

(むとう)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑤価値観のインフレ発生!「神宝館」、フロア全部「国宝」状態の凄さ


注意!しばらく「第二宮・第三宮」は修復工事中

高宮斎場から下り、右手に曲がると第二宮・第三宮があります。第二宮には沖ノ島の沖津宮に祀られている「田心姫神(たごりひめのかみ)」、第三宮には大島の中津宮に祀られている「湍津姫神(たぎつひめのかみ)」の分霊がそれぞれ祀られています。
現在は修復中とのことでお詣りできませんが、神さま方の分霊は、本殿のほうに遷してあるので、そちらで一緒にお詣りすればいいとのことでした。
じつは、こちらの第二宮・第三宮の建物は伊勢神宮の内宮別宮(ないくうべっくう)の社殿だったものだそうで、伊勢神宮にしか許されない建築様式「唯一神明造」だと聞いていたので、できれば拝見したかったんですよね。残念!

もし、こちらもぜひ、という方がいらしたら10月以降に予定されるといいと思います!(できれば、電話で確認したほうがいいかもしれません)

「神宝館」、そのほとんどが国宝という贅沢さ

そして、沖ノ島の神宝をおさめた「神宝館」へとやってきました。

「沖ノ島神宝」8万点は、一括して国宝に指定されています。「海の正倉院」とも称される沖ノ島の神宝は、4世紀後半から約550年もの間の、貴重な古代祭祀の遺物であり、祭祀の姿が変遷していく様を、そのままに伝えてくれています。

今回、ちょっと冷静な面持ちでこちらを拝見できたのは、2014年8月に丸の内の出光美術館で開催された「宗像大社国宝展」でちょっと免疫があるからなのです。有名どころは今回二度目、というものもありましたので、だいぶ落ち着いてみることができました。
それにしても、あれもこれもそれも「国宝」!
同じフロアを見ていた年配の男性グループが「なんじゃ、どれが国宝なんかわからへんのう」「ほんまや」といった会話をずっとしておりましたが…

――お父さんたち。

ここのフロアにあるもの、全部「国宝」、っすから!!

と話しかけたくなるのをずっとこらえるのが大変でした。
確かに沖ノ島関係の展示、全部国宝なので、わけわからなくなります。
普通だったら大きなフロアに国宝が一点ある、とかですよね。
未指定のもの、市指定のもの、県指定重要文化財が来て、国指定文化財、そして、一番盛り上がるところに……「おおお、これが国宝ですか!」どっかーん、…みたいな感じじゃないですが。それだって十分にすごい話なわけです。
しかしここでは価値観のインフレが起こっちゃうって言うか…

3階フロアの後半に、社伝の文化財も展示されてましてですね。宋代の狛犬や、足利尊氏奉納の胴丸と兜に、宗像大社文書など、大変貴重なものばかりです。すべて国指定重要文化財なんですけど、むしろ目立ちますよね。逆に。

春日大社さんの国宝殿も同じような気持ちになりましたが、ほんと、あるところにはまとめてあるんですね。

(ご覧のように立派でなかなか広い建物ですので、ご注意を!)

あ、とんでもなく余談ですけど。
こちらの建物三階建てでかなり広いですし、何しろ展示されているものも国宝ばかりで、時間をかけて拝見したくなりますが、おトイレが一階にしかないので(ムトウ調べ、たぶん)、気を付けてください!
私は、三階でおトイレに行きたくなったのですが見当たらず、かなり焦ってはしたなくも失礼ではありましたが、階段を走り下りておトイレ探してしまいました。ちなみに、エレベーターは一基あったと思いますが、一般の方は階段を使用、という感じでしたのでその点もご注意を。

(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】④宗像大社辺津宮に在る「聖地」の空気感


いよいよ宗像大社へ、GO!

東郷駅近くの日本料理店「史」で、美味しいお魚を堪能した後は、バスに乗って宗像大社を目指します。

余談ですが、宗像市って「宗像駅」がないんですね。宗像大社の最寄り駅は、「東郷駅」。市役所の住所を見ても「東郷」なので、このあたりが中心地ということになるんでしょうか。
宗像市のHPを見ると、昭和の大合併(昭和29年)の時に、東郷町、赤間町などの町が合併して「宗像町」となり、その後人口が増えて「宗像市」になったんだそうなので、その気配を今に伝えている、と言ってもいいのかもしれません。

駅のある内陸部から、海の方へと向かいます。ちょっと岡みたいな地形、のどかな田園地帯を越えると左手にいよいよ現れました!

宗像大社、辺津宮です!!

さて、ここから正面を歩いて行きますと…

石橋のさきに二の鳥居が見え、その先の本殿が見えてきました。

おおお。
なんとも重厚な、厳かな本殿です。

世界文化遺産に登録が決定した矢先でしたので、ひとで溢れているかと思っていたのですが、そんなことはなく、とても静かです。

こちらが本殿・拝殿です。
こちらには、「宗像三女神」のうち、「市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)」が祀られています。

さっそく本殿にお詣りしご挨拶をすませると、以前友人がプレゼントしてくれた宗像大社パンフレットのマップを見てみました。(以下、パンフレットからマップを転載)

お寺さん以上に、神社は敷地が広いことが多いですよね。
しかも、思いもよらない小さなお社が実はとても重要なお社だったりします。ですので私の場合、初めて参拝するときには、社務所の方にどのような順でお参りするとよろしいでしょうか、なんて聞いてしまうこともあります。
大きなお社なんかですと、こうした地図の入ったパンフレットを配ってらしたりしますので、ぜひ社務所などをチェックしてみてくださいね!

さて、せっかくですので、このパンフレットにある通り「推奨ルート」の順に巡ってみたいと思います。

古代祭祀の姿を伝える「高宮斎場」――神籬(ひもろぎ)とは

国指定重要文化財の本殿・拝殿(安土桃山時代再建)も素晴らしいのですが、今回、実はもっとも楽しみにしていたのは、この二番目「高宮斎場」を拝観することなんです。

静かな木立の中を進んでいきますと、15分ほどしてぐんと空気が変わるエリアに到達しました。

参道を進んでいくと直角に左折、その正面〔どん詰まり〕ではなく左手に、木の柵で覆われ、平らかで玉石がひかれた広場が現れました。周囲には常緑樹が茂り、祭壇の先には「神籬」と思われる枝の別れた常緑樹が見えます。

「神籬」は神の依り代(しろ)のことです。
この高宮斎場は、宗像三女神が降臨した場所だそうで、今も古式ゆかしい神籬ならではのお祀り方をされているということだそうで…。宗像大社さんにとって、沖ノ島と同じくらい大切な場所なんだそうです。

すみません、上の写真では、実際の中の様子がよくわからないと思います。
しかし、気配に押されて写真撮るのやめちゃいました(びびり)。

私以外に人がいなかったということもありますが、この濃密な空気ときたら…。これは「お行儀良くしなければ…」と思ってしまう場所ですよ。

なんとなくぎこちない形で拝礼すると、少し緊張したまま、来た道を取って返します。先ほど左折したところ右折すると、「ほうっ」と息を吐きました。ここから、空気が軽くなるんです。

いや、こんなこと言うと「???」と思われてしまうかもしれません。単に私はびびりだからかもしれませんが、ある種の「危機察知能力」が強いんじゃないかと思うんです。
霊感、とかそう言うのともちょっと違います。もっとプリミティブな衝動というか…
動物が生存するために持っている直感のようなもの…(多分)。

ですので、けっこうこの感覚あたります。
そんな経験があるので、「わ、わわ…」と感じるところには入りませんし、入ったとしてもものすごく大人しくします。理屈じゃないこうした感情を、古来、「畏れ」と呼んできたのかもしれませんね。

「聖地」というのは、古来より聖地であることが多いと思いますが、それはどの時代の人間にとっても、何か「畏れ」を感じさせるものがその場所にあり続けている、ということなのではないでしょうか。

宗像大社の高宮にも、そんな空気を感じてしまったのでした。

(つづく)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】③祝・世界文化遺産決定!「宗像大社」――海人族ムナカタ氏に思いを馳せる


「ムナカタ」氏という海の民の壮大なストーリー

2017年7月9日。

紆余曲折あって関係者各位をやきもきさせたと思いますが、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」が、一括して世界文化遺産に登録されることが決定しました。ほんとよかったですね。「一括して」というところが大切です。そこのところにこの場所の大切な「意味」、「ストーリー」があるわけですからね。

その壮大なストーリーこそ、古代海人族の雄・「ムナカタ」氏の、大いなる歴史の証なのですから。

「ムナカタ」と聞くと、大方の古代史ファンは、「おおぅ…」と言って少し溜息をつくのではないかと思います。

『古事記』の有名な「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)」で、アマテラスがスサノオの刀を嚙み砕いて吐き出した息の中から生じたという女神、『宗像三女神』。

この『宗像三女神』は、数ある神々の中でも特別な神さまたちといえます。

アマテラスが、

「汝三神は、宜しく道中に降居して、天孫を助け奉り、天孫に祀かれよ」
――「そなたら三神は、道中〔みちなか・朝鮮半島との航路、玄界灘のこと〕に降臨し、天孫を助け奉り、天孫に祭(いつ)かれよ」

と、じきじきに「神勅」〔神のよる命令のこと〕をしたという、特別に重要な神々なのです。

あるいは、

『日本書紀』にある、大海人(おおしあま、おおあま)皇子の嬪(ひん)・胸形君尼子娘(あまこのいらつめ)――大海人皇子の長男で、太政大臣にもなった高市(たけちの)皇子のお母さんの名前に、その名があることをふっと思い浮かべるのではないでしょうか。

大海人皇子とは、のちの天武天皇ですが、この人がまた「海」の気配の強い人です。

その名の「大海人」は、皇子を養育したとおもわれる氏族「凡海(おおしあま、おおあま)氏」からきているようなのですが、この凡海氏は、安曇氏と同族とされる人たちなんだそうです。宗像氏と同様、海人族のひとつなんですよね。
その大海人皇子の、最も早い時期の奥さんの一人に、胸形君徳善の娘がいるということは、なんか無関係じゃないような気もします。

海の民と、天孫族(大王〔天皇〕家)が交錯するお話の数々。

ロマンですな~。いや~。

 

いよいよ、通史上最も苛烈な海域のほとりに立つ!

血沸き肉躍る………

この海域を眺めると、そんな思いにとらわれるのは私だけではないはずです。


今回まず訪ねた「宗像大社」は、正確にいうと「宗像大社辺津宮(へつぐう)」のこと。宗像大社は三つのお宮があり、それぞれに女神が祀られているのです。

辺津宮は、福岡の博多駅から電車で約40分、東郷駅下車。バスで20分ほどのところにあります。

上の図をごらんいただけるとわかりやすいかと思いますが、朝鮮半島へ向かう航路の重要なポイントに、大島、沖ノ島と、それぞれのお宮があったであろうことがわかります。

そして、話題の沖ノ島は、玄界灘のちょうど中央にポツンとある孤島であり、対馬と大島のちょうど半分あたりに在ることが分かります。
なるほど、ここで航海の無事を祈ったりするのは、心境としてもとてもよくわかる気がしますよね。ここから先に見えるのは、しばらく海原ばかり。熟練した海人族といえど、神の加護を祈りたくなるポイントなのではないでしょうか。

…さて、そんな気持ちで東郷駅に降り立った私は、決然と日本料理屋さん「史」へと向かいました。

まずは腹ごしらえですよ。

大事ですよ!
その土地のものを食べるということは!

私は旅をする時、できるだけ速やかに、その土地に身を馴染ませる必要がある、と感じるのです。
チューニングするって言うか。
そのためには、いかにもその土地らしいものを食べるのが一番です。

…というわけで、お刺身とてんぷらの定食をいただきました!
ご飯は「蒸し寿司」だそうですよ。あったかい少し酸味のあるご飯です。美味しい!

それにしても、玄界灘のお魚ってなんだってこんなに美味しいんでしょう。
豊かな海ですよね。ほんと。

(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】②「対馬」から「東アジア」を感じ、考えてみたい


九州と朝鮮半島の間に在る「対馬」

そして、もう一つ。
このあたりでどうしても気になっていた場所がありました。

九州島と朝鮮半島の間にある、「対馬」です。

距離からすれば、九州島よりも、朝鮮半島のほうが近い「対馬」。
対馬の北部からですと、釜山までほんの50キロしかはなれていないのです。博多港までは140キロほどだそうですから、その距離感の強弱はお分かりいただけるかと思います。

(写真:博多港から高速船で2時間15分。いよいよ姿を現した対馬は、唐突に目の前に立ちはだかるような急峻な山島でした)

 

『魏志倭人伝』でも、対馬国は「倭国のひとつ」だった

しかし、『後漢書倭伝』や有名な『魏志倭人伝(『三国志 魏書東夷伝(とういでん)』)』の時代から、対馬は「倭国」なのです。

ちなみに、『後漢書倭伝』には「倭の西北と境界をなす狗邪(くや)韓国から七千余里離れている」とあり、その後漢書を参考にかかれたと思われる『魏志倭人伝』には以下のように表現されています。

『倭人は帯方〔郡〕の東南大海の中に在り、山島によりて国邑(こくゆう)を為す。旧(もと)百余国。漢の時、朝見(ちょうけん)する者有り。今、使訳(しやく)通ずるところ三十国。
郡より倭に至るには、海岸にしたがって水行し、韓国を歴て、あるいは南し、あるいは東し、その北岸・狗邪(くや)韓国に到る七千余里。始めて一海を度る千余里、対馬国に至る。其の大官を卑狗(ひこ)と曰ひ、副を卑奴母離(ひなもり)と曰ふ。居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)のみちの如し。千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰ふ。』
*『三国志 魏書東夷伝』『日本大百科』掲載文を改定。〔 〕内は筆者による。

これを読むと、当時の対馬人がどう考えていたかは倭国側の史書が残っていないのでわかりませんが、少なくとも「後漢」や「魏」の人は、対馬は「倭国」だと考えていたということがわかります。これが当時の東アジア社会の共通認識だったと考えていいんじゃないかと思います。

しかし、本当に、とても不思議な気がします。
地理的には朝鮮半島のほうが圧倒的に近いのです。単純に考えたら近い方が親和性が高いような気がしてしまいます。でも、そんな単純な話ではないんですよね。これだけ離れているのに、「倭国」という認識があるということは、距離以外の何か理由があったと考えるべきでしょう。

(写真:対馬の博多側の玄関口・厳原港。島が大きすぎて、島という感じがしません!さすが!)


そして、宗像、対馬、壱岐へ旅立つ!

私は、実際にその場所~対馬~に立ってみたいと思いました。
対馬という場所に立ってみて、その地点から朝鮮半島や日本列島や中国大陸を考えてみたい。どう感じるのかを、確認してみたい、そんな気持ちに囚われたのです。

そうして、対馬について調べ始めました。
そうしましたら、この「対馬」という場所が、「日本」の文化や歴史にとって、とても大切な場所であるということがちょっとずつわかってきました。

そしてもう一つ一緒に、というのはなんですが、その対馬と九州島の間にある「壱岐」にもむくむくと興味が湧いてきました。「壱岐」も倭国の国のひとつとして、『魏志倭人伝』などに登場する由緒ある場所です。

宗像、そして対馬、壱岐。距離で言えば、宗像→壱岐→対馬なのですが、今回の旅では、「対馬」をメインに考えて、「宗像→対馬→壱岐」の順で巡ってきました。

(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】①「海の国・日本」の大切なルーツをたどりたい


「日本文化」のおおもとを感じたい

40年余りの人生を振り返ってみますと、どうも私は、自分自身が生まれ育ったこの「日本」という国のおおもとを感じたい、という欲求に突き動かされ、動き回っているような気がします。

きっかけはひょっとしたら、子どもの頃に、縄文土器を見つけたことかもしれません。私が生まれた家は、縄文時代の住居跡の上にあり、発掘調査は済んでましたが、それでもちょっと掘れば土器の破片が出てくる場所でした。

その縄文土器はおそらく後期ぐらいのものだったんでしょうね。かなりデコラティブな文様のものもあって、そりゃもうかっこよかった。
と同時に、弥生時代と思われる薄い土器や、もっと下った時代と思われる土師器も一緒に出てきました。実際には重層的に積み重なっていたんでしょうけど、子どもが穴を掘るので、結局混ざって出てきているような感じになるわけですね。

私が暮らすこの土地には、信じられないほど長い時間、誰かが暮らしていた――。

そう考えると、何とも言えない豊かな気持ちになるんです。
私もいつか、その大きな流れの流れに帰っていくんだ、そんなふうに思うと、私は孤独ではない、そう感じられてホッとしたものでした。

そんな経験があったからでしょうか。

そうした気持ちを感じられる場所が、私の大好きな場所になりました。そんな場所はつまり、「太古から繋がる何かとアクセスしやすい場所」ということになるのです。

それは不思議と縄文時代の遺跡や、古墳、お寺や神社がある場所と重なります。
どんな時代でも、「ここは…?!」と、人間が感じる場所はそうそう変わらないということでしょう。なんとなく気持ちがいい、畏れ多い、感謝したい、そんな気がふと起こってしまう場所というのは、いつの時代でも共通なのではないでしょうか。

(写真:飛行機から見た富士山。富士山もまさにそんな場所ですね!)


古代日本を動かしていた海人族、安曇(あずみ)氏と宗像(むなかた)氏

さて、私たちが暮らす「日本」の最大の特徴は、「島国」だということでしょう。
島国ということは、四方を海に囲まれていますから、海を自由に行き来できる技術を持った人たち「海人族」が力を持つようになる、ということは自然な流れです。

そんな海人族の中でも、特に有名なのは、安曇(あずみ)氏、そして宗像(むなかた)氏です。
「安曇」と聞くと、信州の安曇野を思い浮かべる人も多いかと思いますが、それ、正解です。安曇野は山間部にありますが、安曇氏は日本中に散らばって今も地名や神社などにその姿を残しています。

そして「宗像」氏。――「むなかた」。
最近耳にしたことがあるという人は多いのではないかと思います。
つい数週間前に、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」が世界遺産に登録されることが決定しましたね。

この「沖ノ島」は、祭祀が行われていたその姿をそのまま今に伝えている大変貴重な場所ですが、そもそも「宗像大社」の「沖津宮」です。

(写真:宗像大社・辺津宮正面。一般的には宗像大社といったらここを想像するかもしれませんが、宗像大社そのうちのひとつ、ということなんですね)
私は、かねてよりこの「安曇氏」と「宗像氏」などの海の民の本拠地であるこの地域に興味津々でした。奇しくも、というか必然なのかもしれませんが、この海人族は両方とも北九州で発生した氏族なのです。
安曇氏の発祥地は「筑前国糟屋郡阿曇郷(福岡県粕屋郡新宮町)」とされていて、宗像大社から20キロしか離れていない場所にあります。ほんとに近いですよね。
この至近距離から、これだけの勢力を持つに至った氏族が二つ出ているというのは、偶然ではないのでしょう。それだけ、この海域が重要な場所だったということを想像させます。

安曇氏も、宗像氏も今の日本の礎となるような、重要な存在です。
…ううう。
これは、やっぱり実際にその場に行ってみたい。その場に立ってみたいですね。

(続く)

「誰かに認められなくても、あなたは素晴らしい」。五木先生渾身のメッセージ集・第三弾登場!『あなたの人生を、誰かと比べなくていい』/五木寛之著(PHP研究所)


「誰かに認めてほしい」という欲求
先生のご本をお手伝いさせていただいて、今回でなんと5冊目!!そして、本シリーズはついに第三弾となりました!!

いやあ、もう。本当に嬉しいです。
一年間で三冊。
まさか実現できるとは……。奇蹟のような発刊ペースだと思います。
改めまして五木先生、本当にありがとうございます!!!
発売日は7月21日。少々フライングですが、ご報告させていただきます!!

さて、今回のテーマを決める際に、以前の打ち合わせの際に五木先生がぽつりとおっしゃった言葉が、ずっと心に引っかかっていました。

「誰かに認めてほしいという欲求が、高まりすぎているね」

世の中の流れを絶えず感じ続け、その大きな流れの先端にいらっしゃりながらも、自分はマイノリティだ、とおっしゃる先生。いつでも外側から俯瞰しておられるような、そんな視座をお持ちだからか、とにかく世の中にある流れにものすごく敏感でらっしゃいます。その感度の絶妙さは、神がかり的と言っていいでしょう。
その先生が「認めてほしい」という言葉を使われたことが、気になって気になって……。

苦しみの根源にあるもの
そうしたところに、前作、前前作の読者の皆さんからのお便りが届きました。その中には、まるで先生の言葉が呼び寄せたかのように、「誰かに認められたい」、そんな思いで苦しんでおられる言葉が溢れていたのです。

その苦しみは、「自分の人生を肯定できない」と考えていることが原因のように感じました。そしてそれは、「ほかの人の人生と比べてみると、自分はだめだ」、そうおっしゃっておられるのがほとんどだったのです。

「比べる」

これをして、良いことになることは少ないのではないでしょうか。
「比べて」分析し、情報として前向きに生かせればいいですが、なかなかそうはいかないのではないか。それで、私たちは二重・三重に、苦しみ合っている……

「認められたい」「比べる」

N編集長と私は、これだ!と思いました。これこそ今回のご本のテーマなのではないか、と。そのことを先生にご相談すると、先生はにっこりと頷かれました。それがいいね、と。

そうして、タイトルもストレートに、『あなたの人生を、誰かと比べなくていい』となりました。

この世界は、生きるにあたいする
先生がこれまでに何度も、ブッダが生まれて間もなくにはなった言葉、「天上天下唯我独尊」をキーワードとし、語ってこられたことがあります。

それは、この言葉とは、「私という存在は、ただひとつしかない尊い存在である」という意味ではないか、ということです。つまり、「比べようがない」貴重な存在なのだということです。

「(前略)私たちはたったひとつの存在としてひとりで生まれ、ひとりで死んでいきます。つまりすべての人が、「ひとり生きる」存在だということです。私たちはそのことを、実感として気付く必要があると思います。

「ひとり生きる」ことは、とても険しい道のりです。似たような人がいても、同じではない。誰かの真似をしても、まったく同じにはならないでしょう。だから自分ひとりで悩み苦しみながら、精いっぱい生きるほかないのです。

しかしひとつの希望は、「すべての人が、ひとり生きている」ということです。その点において私たちは共感し、つながることができる。

不安のあまりひとり眠れぬ夜を過ごしていたら、そのことを思い出してみてください。苦しくて涙も出ない。そんな時にも、世界にはあなたと同じように苦しんでいる人がきっといる――そのことを思い出してほしいのです。」(「まえがき」より引用)

少々長くなりましたが、まえがきより引用させていただきました。

「ひとり生きる」とは、「孤独」ということです。
しかし、孤独であることを恐れないで、と先生はおっしゃいます。

なぜなら、この世に生きるすべての人が、「ひとり生きる」存在だから。孤独を抱える存在だからこそ、誰かとともにある時の――寄り添えた時の喜びは大きいのです。

先生はあとがきで、「やはりこの世界は生きるにあたいする」と呟かれています。

何度も鬱状態に陥ったり、自殺を考えたこともあるという先生ですが、今、そのような境地になられたということは、私たち読者にとっても、「希望」なのではないかと思います。

* * * * * * * * * *

また、おかげさまで、第一弾『ただ生きていく、それだけで素晴らしい』は5刷を数え、3月に刊行されました第二弾『無意味な人生など、ひとつもない』は、3刷を数えました。本当にありがたいことです!
お手に取ってくださった皆様、改めて御礼申し上げます。

そして、最後になりますが、第一弾から一緒に走り続けてくださっているN編集長様。また本シリーズの礎を築いてくださったN元編集長様、本当にありがとうございました!第四弾も、頑張りましょう~!

(むとう)

日韓仏教交流の歴史を知る②「和諍(わじょう)」と「一心」の思想/『アンニョンハセヨ!元暁法師』展@金沢文庫


6世紀にはじまる仏教交流史
第一回の講座の講師は、岡本一平先生です。仏教学の研究者であり、今回の展覧会開催の立役者でらっしゃるとのこと。初めて講義を拝聴しましたが、サービス精神たっぷりな語り口で、とても分かりやすい!

「日本の仏教学は、多宗派だったりするために、研究しにくい面があり(仏教徒でない研究者は特に)、歴史学者がけん引してきたという側面がある。そのために世界の仏教学からすると…」

こんなお話も、もっとくだけた感じで、はっきりきっぱりお話ししてくださったりして、なるほどなるほど、といった感じ。とにかく歯に衣着せぬお話はとても面白かったです。

さて、ご存じのように、韓(朝鮮)半島と、日本の繋がりと関わりは、とても深いものです。仏教という側面で見れば、6世紀半ばごろ、百済から公伝したとされています。

当時の東アジアは、動乱の時代と言っていいでしょう。韓(朝鮮)半島は三国時代です。北部には、高句麗。東部には新羅、西部には百済が林立していました。
中国は、「唐」。そして、我が日本は、時代で言えば飛鳥時代。聖徳太子のお祖父さん・欽明天皇(前後数代)の頃の話になります。

そんな中、当時の最先端文化である「仏教」は、外交儀礼のための教養としても必要だったでしょうし、実際的な話として、戦争が続く情勢下、救いを求める人々がたくさんいたのではないかと思います。

新羅が生んだ大思想家・元暁(がんぎょう)、その思想「和諍(わじょう)」
そんな時代、当時の新羅で誕生したのが、元暁(617-686)という人です。私は不勉強で存じ上げませんでしたが、韓国では、日本人にとっての聖徳太子のような存在で、彼が具体的にどういう人だったかよくわからないけれども、偉い人だ、ということはみなさんがご存じなんだそうです。

(チラシから抜粋。この髭顔のワイルドなお方が元暁さん)

岡田先生のお話を聞いてますと、元暁さんという人は、仏僧という枠をも大きく超えていってしまうような、とても大きな人だったということがよくわかります。

「元暁の思想は『和諍(わじょう)』にあると言われる」んだそうですが、この『和諍』という思想が、その突端だけ伺っただけでも、とても深くて面白い!

「彼の学問方法を表わす代表的キーワードが『和諍(争いや異なった考えを調和させる方法)』である。和諍に似ている概念に『会通(えづう)』もあり、『会釈』もある。しかし少し分けて考える必要がある。会通あるいは会釈というものは矛盾とも見える異なる意見を統一的に解釈することを意味する。それにたいして和諍は、会通や会釈に至るまでの論法まで含む総称である。具体的に言えば、和諍は部分肯定・部分否定、完全否定・完全肯定といった形式を通して異なる意見を評価し、それらの意見を会通(会釈)するのである。」(図録p20より引用)

元暁さんが、どうしてそういう方法を考案するに至ったかと言うと、ブッダが亡くなって以降論争が絶えないことを解決させたかったのかもしれません。元暁さんは、「鏡がすべての形状を受け入れることと同じように、すべてが融通する」ことを、彼の全著作によって試みた、というのです。

悟りとは、自分の内に在る「一心」に立ち返ること
そしてその「和諍」の基底にあるものとして「一心」の思想というのがある、と。

岡田先生のレジュメに、

「元暁は、『万境(すべての外界)』を幻と捉え、自分の内に在る『一心』に立ち返ることを『悟り』と考えていた。この『一心』は分割することができない存在である。」

とあります。

例えば元暁さんの著作『両巻無量寿経宗要』に、「穢土と浄土とは、本来「一心」〔の現れ〕である。輪廻と涅槃も最終的には二つではない」とあるんだそうですが、これを岡田先生が訳すと…
「穢土と浄土は本来『一心の現れ』にすぎず、その『一心』を知らないから、二つと考えてしまう」と。

おおお!
何だか、この考え方、今の時代でもとても理解しやすいような気がしませんか??

例えば、「あることを改善する」ことについて話し合っていたとします。
AさんはとBさんは全く逆の意見で対立しています。
しかし、どんなに考え方や方法論が真逆で、喧嘩になろうとも、「あることを改善したい」という大元のこころ(これを一心と考えてもいいのかなと)に変わりはありません。

元暁さんが試みたというその方法論、ぜひ知りたい!
今の時代にこそ、それはまさに必要な智慧なんじゃないでしょうか。
違う考えだろうと、違う宗教だろうと、「鏡がすべての形状を受け入れることと同じように、すべてが融通する」ことができたら……!

いや、ほんと、すごい魅力的な思想です。元暁さん、すごい!

****

岡田先生が、講座の中で何度も言っておられたのは、東アジアの文化交流の厚さ・そして大切さでした。この、元暁さんの研究も、金沢文庫に大切に保管されていた著作物類がなければ、なしえなかったとのことなのです。

元暁さんはたくさん本を書いた人なのですが、本国では王朝交代などの政変や戦乱でその多くが失われてしまった。元暁さんが大変に偉いお坊さまだったこと、そのすごい思想を書いた本があったことは歴史として伝わっていても、その本自体が無くなってしまうと、より深い研究や継承はむずかしい。
しかし、日本に伝わった偉大な元暁さんの著作物は、大切に伝承されたのです。

今回の特別展の韓国側の責任者・東国大学の金鐘旭さんが、図録の冒頭で次のような言葉を記しておられます。少し長めにですが、引用させていただきます。

「(前略)元暁以外にも新羅・高麗の僧侶の多くの著述が中国と日本に伝来しますが、残念ながら現在韓国に残っている文献は非常に少ないです。伝承の過程のいずれかの時点で、失われてしまいました。幸いなことに現在知られている新羅仏教文献の約90%が日本に残っています。日本が私たちの著述を伝承してくれなかったならば、私たちは新羅仏教思想を執筆することすらできなかったでしょう。また今回のような素晴らしい特別展も開催されなかったでしょう。相手の優れたものを受け入れる思いやりがなかったらあえて筆写までしなかがら伝承し続けたことはなかったと思います。その点から私は新羅・高麗の偉大なる先人に変わり、我々の文献をよく保存して下さった日本のすべての仏教者に深く感謝申し上げます。」

隣国というのは、利害関係も生じやすく、なかなかスムーズにはいかないというのは世界中どこでもいえることです。

しかし、そうした面以上に、お互い共有している良い面もたくさんある。そして思いやりを持ち、尊敬を持ちあうこともできるのです。

元暁さんの思想は、今こそ必要とされる、大きな思想だと感じました。

そしてその思想研究を、日韓で手を携えて続けておられるという事実が、また何とも喜ばしい。元暁さんという大いなる源から、善なる芽が時を越えて伸び続けているような気がします。
(むとう)

日韓仏教交流の歴史を知る①「金沢文庫」を知っていますか?/『アンニョンハセヨ!元暁法師』展@金沢文庫


「金沢文庫」とは??
二年に一度くらいでしょうか。埼玉から遠路はるばる、京急「金沢文庫」駅に降り立ちます。私のすんでいるエリアの駅からは、2時間10分ほどかかります。こうなるとちょっとした旅ですよね。

ところで、みなさん。「金沢文庫」ってどう読みます?
「かざわぶんこ」が一般的ですよね。

でも、もともとは「かざわぶんこ」と読むのが正しいようです。というのも、この金沢文庫は、鎌倉時代に金沢(かねざわ)流北条氏(金沢氏)二代目、北条実時が建てたものだからなんですね。
そう。形は変われども「金沢文庫」とは、鎌倉時代からずーっと存在しているものなのです!この事実をご存じない方も結構多いかもしれないと思います。

さて、この、創設者の実時という人ですが。
鎌倉幕府三代目執権・泰時の甥であり、幕府の要職を務めた名流です。同時にたいへん好学の人で、和漢の書物を収集し、のみならず自ら書写点校にもつとめました。そのために、鎌倉の自宅には貴重な書物が収蔵されていたらしいのですが、何度か火事で類焼してしまった。それに懲りた実時さんは、金沢の地に別荘を建て、そこに書物を移したそうなんです。

――そのことを称して、いつの間にか世に「金沢の北条の殿の御文庫」と言われるようになったのであろう。(『国史大辞典』より)

学問好きの殿さまが、立派な書庫をお持ちだ、と評判だったんでしょうね。この界隈の人はこのあたりを「文庫ヶ谷(ぶんこがやつ)」なんて読んだりしてたんだそうです。
実時さんは、のちに別荘を中心に寺院を建立しました。「称名寺(しょうみょうじ)」という真言律のお寺で、代々高僧が住職を務め、日本中から学僧たちが仏教を学ぶために集まるような、大寺院だったそうです。しかし、鎌倉幕府が滅び、北条氏が滅んでからは衰微の一途をたどり、江戸時代には創建当時の堂塔のほとんどが無くなってしまいました。

上の写真は、現在の様子です。浄土式庭園が美しいステキな境内ですが、1778年に『称名寺絵図』をもとに復元されたものなんだそうです。

金沢文庫の収蔵典籍約二万点あまりが一括して「国宝」に
そして、現在の「金沢文庫」は、この称名寺の西側に新しく建てられた中世史専門の歴史博物館です。称名寺や称名寺が管理していた金沢文庫の貴重な資料が主な収蔵品になるわけなんですが、それがとうとう昨年、その2万点余りにおよぶ称名寺聖教(しょうぎょう。経典のこと)および金沢文庫文書が一括して国宝に指定されました。

(こちらが金沢文庫。称名寺境内から抜けていくとこんな感じです)

いや~、すごいことですよね~!
一括で国宝指定だなんて、素人の私でもこれらの典籍がいかに貴重なものであるかがわかります。
しかし、その貴重さの本当のところを、私はよくわかっていなかった。
この典籍類とは、日本どころか東アジア全体の、ひいてはアジア文化史にとって貴重な、本当に奇蹟のような宝物なんです。今回、講座を聴講したことでちょっとだけ身に迫って理解できたような気がします。

現在こちらで公開中の特別展『アンニョンハセヨ!元暁法師』展では、連動して「韓国仏教入門」(全三回)という講座を開講しておられます。

実は、ここのところの日韓の関係に、ひとり静かに心を痛めていました。歴史的に難しい事柄はたくさんあれど、そうはいってもやはり韓国も北朝鮮も、本来とても近しい存在ですし、兄弟のように共有している文化背景もたくさんある。なのに、ネガティブな側面ばかりが目についてしまい、ポジティブな側面が見えにくくなっているような気がしてならないのです。

最近、そんなことを思い、改めて朝鮮(韓)半島の文化、境界地域の文化、日本の文化について自分なりに、学び直そうと思っていたので、この特別講座にはまさにドンピシャ!です。

(つづく)

”深海生物”。その奇妙で、あまりに魅力的な世界!/特別展『深海2017』@国立科学博物館(7/11-10/1開催)


これまでの編集者人生を振り返ってみて、後悔することは数限りなくありますが、その中でももっともヌヌヌヌ…という気持ちになるのは、ある本の出版権を一歩の差でとることができなかったことなんです。

その本は…

『The Deep』クレール・ヌヴィアン著

この本です!!

く~っ。今思い返しても悔しい。

実は、この本の存在を教えてくださったのは、カイメン学者のIさん。
たまたまこんな本が出たんですよ、と見せてくださって、私は一瞬にして釘づけになりました。
英語はよくわからないので、Iさんに、「わわ!?なにこれ、めちゃくちゃきれい!これはなんていう生物?」と一つ一つ教えていただきながら(贅沢!)、拝見したんです。

いやあ、ほんと。興奮したなあ。
だって、本当にきれいで面白いんですもの。

すっかり興奮した私は、翌日出社して上司にこの本のことを話しました。
まだ出版されて数カ月、版権をとってこの本を出版できないでしょうか?とモジモジ言う私。上司は、私の何倍も海洋生物を愛している人なので、「すぐ電話しろ、すぐすぐ!」と背中を押してくれました。

しかし。

タッチの差で、ほかの版元さんと契約交渉が始まってしまったことが分かりました。そして、その後契約もされたとうかがい、本当に、本当にがっかりしてしまいました。

はあああ。

今もこの写真集を眺めては、そのことを思い出し、ちょっと悲しい気持ちになるのです。

それから、早いもので10年が経ちました。
その後、日本中に深海生物ブームがやってきました。沼津に深海生物専門の水族館ができたりして、すっかり定着したような気がします。
というわけで、『深海』と思いうかべただけでここまで前置きが長くなってしまう私なのですが、ここからが本題です。

いよいよ来月11日から『深海2017』展が開催されます~!いえ~!

前回の『深海』展ではとにかくダイオウイカ推しだったような気がしますが、今回は「生物発光」「巨大生物」「超深海」にフォーカスして構成してるんだそうですよ。

ぜひとも観に行かねば!ですね!!

私は、夏休みはちょっとはずしたいので、9月になってからみに行こうと思っています。

特別展『深海2017』@国立科学博物館
会期:2017年7月11日~10月1日