muto の紹介

ありをりある.com編集長。アウトドア系出版社を経て、ありをる企画制作所を設立。編集者・ライターとして活動中。気になる分野は歴史・伝統文化・仏教・いろんな国のいろんな考え方など。好きな食べ物はあんことなす。趣味は三線弾きと剣道。

若き日の半藤先生、日本の黎明期の心を詠う「万葉集」を読み解く!『万葉集と日本の夜明け』/半藤一利著


半藤先生のご本をお手伝いさせていただいて、今回でなんと四冊目。

これまでは、太平洋戦争や昭和史といった半藤先生ならではのテーマが多かったのですが、今回はちょっとこれまでのご本とは雰囲気が違います。

なんと、今回は「万葉集」です!
ど真ん中、正統文学のかほり!

昭和史の大家としてあまりにも高名で、歴史家として硬派な印象の強い半藤先生ですが、実は学生時代は東京大学文学部国文学科所属。卒業論文は、なんと『堤中納言日記』という生粋の文学青年だったことはあまり知られていないかもしれません。

知られていない、…というよりも、先生もこれまであまり声を大にして言ってこなかった事実、というべきでしょうか。大学を卒業して、編集者として活躍しながらも、短歌を愛し、歌人として活動もされていた、ということも多くの読者はご存じないのではないかと思います。

本書は、そんな若き歌人としての半藤先生が、愛する『万葉集』を前に、ワクワクしながらづつった文章を中心にまとめたものです。万葉集がもつ日本の黎明期・青春期そのものの力強さと、先生ご自身の若々しい躍動感があいまって、素晴らしい一冊となりました。

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ご存じのように、万葉集は日本最古の歌集です。特に日本史上、この歌集が際立っているのは、上流階級の歌だけでなく、庶民の歌も広く収録しているところででしょう。

先生も、やはりそのような歌の数々――東歌、防人の歌に特に愛情を向けられ、読み解いてくださいます。とはいえ、半藤先生ブシは、健在。
東歌や防人歌を通して、古代の日本、そして当時の東アジア情勢を見事に読み解いてくださいます。そこは、やはり「歴史探偵」の面目躍如です。

「『万葉集』は「日本人の心のふるさと」という。しかし『万葉集』は遠い風景をうっとり眺めるようにみるのはむしろ間違い。時代を越えてわたくしたちといまも一緒に生きられる、いや、現に生きているトナリの人々、それが万葉びとなのである。」(本文より引用)

歴史上の人だから、昔の人だからといって崇め奉るのではなく、同じように生を生きた人間として、万葉びとの言葉を味わう。その言葉から、心情を慮り、その時をどう生きようとしていたかを推理する。古代史を庶民の言葉を突破口に、読み解いていく手法は、歴史探偵ならでは。万葉集をお好きな方だけではなく、古代史好きな皆さんにも、ぜひともお勧めしたい内容になっています。

そして、後半部ではご自身が中国を旅した際の旅行記を採録しています。万葉の時代、中国は唐の時代です(正確に言いますと、則天武后の代なので、武周)。先生は、万葉の歌人として有名な山上憶良に仮託しつつ、唐の時代に思いをはせます。

唐の時代、万葉の時代。
ダイナミックで、国際色豊かな時代の風が、ふうっと香り立ちます。

この時代は、何とも言えず、良いですな~。
この頃の仏像も建造物も、精緻でありながら何とも言えず大らかですね。
時代の空気というのは、その時代すべてのものに自ずと現れると思いますが、万葉集や唐の詩人たちの詩にも共通する豊かな息遣いがありますね。
先生の旅行記を拝見すると、そんな息遣いを感じることができます。

半藤先生のファンの皆さんはもちろんですが、古代史好き、万葉集・短歌好きのみなさんにも、ぜひ、お手に取っていただけたらと思います!

(むとう)

file.123 茶香房長竹の「抹茶大福」


いちにちいちあんこ

皆様、お盆はいかがお過ごしでしょうか。
夏休みを謳歌されている方も多いことと思います。

しかし、私のようなフリー稼業の場合、休日に作業を進めておいてね、と言われることが多いので、休みはかえって働いていることが多いのです。特に連休が続くと、お休みの前後が、ものすごくきゅうっとしたスケジュールになります。#夏休み、そういえば私は、夏の間にはとったことないな…。

そんなお盆前の差し迫ったスケジュール。

P社さんにお邪魔すると、打ち合わせスペースでアワアワ作業をしている私の前に、いつもにこやかYさん登場。

「あれ?武藤さん、今日は何時までいるんですか?」

あ、あと30分くらいで失礼します~と申し上げると、

「あ、じゃあ今のうちに、いいものがあるから!」

おおお!
Yさんがいいものとおっしゃるということは、そりゃ、間違いなく素敵なおやつ登場ですよ!?

そういうと冷蔵庫から素敵な包みをとりだされました。

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お盆休みをいち早くとられて、京都に帰省されていたというYさん。

「京都に戻ると、必ず寄るお店でね…」

P社さんの甘味番長(勝手に命名)である、Yさんが必ず立ち寄る和菓子屋さん、とな!?!
そりゃ美味しいに決まってますよ!(ワクワク)

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抹茶大福です!

20160813-3早速遠慮なく、パクリ!

うわあ、お餅フワフワ~!
あんこも、美味しい!抹茶の風味が濃い!!コクが深い!
こういうほくほくとした食感のこしあんは、やっぱり関西ならではだなあ、と思います。

ものすごくさっぱりとした後味なので、さらっとパクッと食べちゃいます。ほぼ三口で完食。
この後味の良さですと、一気に3個は食べられるなあ。美味し~!

帰宅してから調べてみますと、お店は先斗町にあるんだそうです。
甘味はもちろん、おばんざいなど、ごはんもいただけるみたい!
今度京都に行ったら、ぜひ行かねばですよ!

Yさん、美味しいおやつ、いつもありがとうございます!!

茶香房 長竹
http://tabelog.com/kyoto/A2601/A260301/26000022/

 

特集「外国人トラベラーにも教えたい 新しい日本の秘境」@『BE-PAL9月号』(小学館)掲載


私は、フリーになる前、とあるアウトドア出版社に在籍しておりました。

その出版社は山やアウトドアの業界では老舗であり、また山や自然を愛する人たちがたくさん在籍されている素晴らしい出版社です。やめてしまった今でも、尊敬してやまない、そして、そこに少しでも在籍させていただいたということを誇りに思っているのですが…。

……しかしですね。

ここで、大きな問題が生じます。自己紹介なんかをするときに、「フリーになる前何やってたんですか~?」という質問が、必ずあるんですけど、その出版社にいましたなんてお話ししますと、私もアウトドアなことが上手な人だ!と思われてしまうということです。

す、すみません。
私、アウトドアなテクニックとか、まるで持ってないんです……。

――この、台詞、いったい何回言ったことでしょう。

あああ、情けない。
自然は大好きだし、旅も大好き。しかし、何の技術もないワタクシ…(涙)。

でも、そんなワタクシではございますが、なんと、小学館の老舗アウトドア雑誌『BE-PAL』さんで、書かせていただいちゃいましたよ~!
アウトドアな知識のない私で大丈夫でしょうか?という私でしたが、
「日本の秘境にかんする企画とか興味ない?」とお声かけていただいて、「あ!それなら私でもちょっとどうにか貢献できるかもしれない!」と思い、飛びつかせていただきました。

20160810-1今月の付録は、今年から施行されます「山の日」を記念したピンバッチですよ~。

そして私が担当させていただいた特集というのは…

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↑ これどす!

「秘境」。

なんて魅力的な言葉でしょう。

とはいえ、これだけ交通網も、インターネットも発達しつくしている日本です。「もう日本には秘境はない」なんて言われて久しいわけですが、今回はあえてこの言葉を使わせていただきました。

本文には書きませんでしたが、今回ご紹介した「秘境」とは、
「多様な自然から生じてきた『日本の文化の本質』を今も秘めている場所」
そんな意味も込めておりますのです。

トップページは、「白山(はくさん)」。そしてその次には「檜枝岐(ひのえまた)」と続きます。

どちらもたいへん有名な場所ですので、皆さんご存じとは思いますが、「外国人トラベラーにも教えたい」というコピーにあるように、こちらはいずれも、日本文化の「深み」の一端を感じていただける場所として、ぜひともお勧めしたい場所です。

他にご紹介した場所の一部をご紹介しますと、西表島、赤目四十八滝、国東半島、出羽三山…などなど。
いずれも日本ならではのもの~山岳信仰、祭り、固有種生物、風景など~を体感できる場所!

どこもかしこも、素晴らしい場所ばかりです!
いやあ、ほんとに!!

私の拙い文章で、そのことを皆様にお伝えできているか、とても不安ですが、もしよかったらぜひお手に取ってみてください!

それにしても、このお仕事をやらせていただいたら、
またもっともっと旅に出たくなってしまいました。罪な企画です!w

最後になりますが、今回取材させていただきました皆様、お写真を貸してくださいました皆様、おっ力添えいただきまして、誠にありがとうございました!
そして担当してくださったN副編集長さま、カメラマンMさま、Oさま、そしてO編集長さま、編集部の皆さま、拙いお仕事でご心配をおかけしたと思いますが、本当にありがとうございました!

(むとう)

file.122 圓八の「あんころ餅」


いちにちいちあんこ

雑誌の取材で久しぶりに石川県に行ってきました。

いや、それがですね。

我ながらびっくりなんですけど、最後に行ったのは多分もう17年前なんですよ。

昔勤めていた出版社で、20代の前半、営業部に二年間所属してたんですが、その時石川県・富山県を担当してまして。なので何カ月かに一度定期的に訪れていたんです。

なので、なんとなくわかった気になっていたというか、プライベートで旅先に選ぶということがこれまでなかったんですね。意外にも。

それに仕事で行ったことがあると言っても、特に観光をしているわけでもないわけで、あんまりよくわかってないんですよね。さすがに兼六園は何度か行ったことがありますが、それ以外はひたすら書店さんを廻って、また電車に乗る、って感じです。

なので、美味しいお寿司なんて一度も食べたこと無いです。

夜はくたくたで、駅で買ったお弁当をビジネスホテルの部屋で食べる、昼は適当に、時間がないので、ドトールみたいなところで軽く済ませる。

……なんか、すっごい健気じゃないですか?
北陸の良さをほとんど味わえてませんよ!? 23歳の私、真面目に働きすぎっ!!

そして夜には、JRの夜の特急に乗って次の営業地、岐阜へ向かうんですが、移動中の電車の中で、私にとって最高のご褒美が待ってるんです。

そのご褒美が、これ。

圓八さんのあんころ餅です!

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今回は、すっかり新しくきれいになった金沢駅ビルのセブンイレブンで買いました。 当時も、確かキオスクとかで売ってましたよ。お値段は確か350円とかだったかな。
今回かったら370円だったので、ほとんど値上げしないで頑張ってくれてるんだなあ。

昔を思い出して、取材が終わった帰り道、昔はなかった北陸新幹線で東京に帰るときに食べることにしましたよ!

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そうそう、これだ~!
竹の皮で包んであってねえ。
べちょっとなっちゃって大きなあんころ餅になってますけど、実際には小さなお餅が9個入ってます。

圓八さんのHPにも書かれてますね。

――『圓八』の代表銘菓「あんころ餅」。その歴史は古く、当店が創業した元文2年(1737年)から、あんころ誕生にまつわる昔話が伝わっています。
素材にこだわり、厳選された小豆と、白山ろくで栽培されたもち米を使用しています。白山から流れ出る伏流水を使用していることもおいしさの秘訣です。――(引用終)

圓八さんの本店は、今回私が取材してきた白山市にあるんですね。
改めて、白山、良かったなあ。 素晴らしい土地でしたよ!あの素晴らしい風土の中で育まれたもち米とおいしいお水、それに丁寧に炊いたあんこ、そりゃまあ美味しいに決まってますね!

口に入れてみますと、…ああ、これこれ。変わらないなあ。
この手のこしあん、やはり関西風です。

私の拙い私見ですが、京都のこしあんはちょっと違うんですけど、その周辺のこしあんの方向って似ています。水分が少なめで、ほくほくっとした食感。甘さも控えめです。
特に大阪のこしあんと共通点を感じますね。

今回も10分ほどで一気食い。
変わらぬ美味しさ、美味しうございました。
また石川県に行ったら、絶対食べよっと。

圓八
http://www.enpachi.com/

file.121 小松屋本店の「つる」


いちにちいちあんこ埼玉県生まれ埼玉育ちなワタクシ。
老舗の有名どころは押えているつもりでしたが、恥ずかしながらこちらは知らなかったです。

世界遺産に登録された和紙・細川紙の産地、小川町と東秩父村というところにある小松屋本店さんの銘菓「つる」。母が買ってきてくれました!

なんとこちらの小松屋本店さんは、創業が1791年、寛政三年という老舗。当主の豊田さんは、全国和菓子協会で選出している「選・和菓子職」認定の職人さんのこと。

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創業当時から続いているという銘菓「つる」。
どんなあんこものなんでしょう?
20160624-2あら?
なんかどっかでみたことあるな…。いや、気のせいかな。
20160624-3あれ~!?
何だろう、ものすごく見覚えがある?!
これ、うんと昔に秩父のスーパーで買ったことあるな。うん!

この白い粉に見えますのは、砂糖ではなく上新粉みたいなサラサラしたもので、あわい甘さ。

皮は、黒糖風味の甘食みたいなかんじ。あんこはこし餡ですが、甘さ控えめで、白い部分、黒糖の皮、こし餡の甘味がほぼイコールって感じ。
一口いただくと渾然一体となって、さらっと食べられちゃいます。素朴で美味しい!

ところで、なぜこのお菓子が「つる」という名前なのか、気になりますよね?
小松屋本店さんのHPをみても何も書いていません。いろいろ調べてみたら、店主の方のインタビューを発見しまして、その中で「由来がわからないんです」と店主さんも言ってましたw。

そうなんだ~^^;。
いえ、じつは私、即座に連想したものがあります。
それは「鶴の子餅」です!
関東では「すあま」と呼んだりしますが、卵型の紅白のお餅のこと。

楕円形で、平べったい上新粉を使ったお餅なんですけど、なんか形がちょっと似てませんか?

埼玉はもちろんのこと、お店のある東秩父村も、お米よりは麦のほうがとれるようなお土地柄です。小麦のほうが手に入りやすいので、上新粉ではなく小麦粉のお菓子を作ったんじゃないかな。そしてなかにはあんこ、外側には白いものをまとわせてみたんじゃないかな。
名前のほうも、長い年月の中で、「鶴の子」の「の子」が取れて「つる」になっちゃった、みたいな?

なんて。
勝手な想像ですけどね。

小松屋本店さんでは、上生菓子なんかもいろいろ作ってらっしゃるみたいなので、ぜひ次回は実際にお邪魔してみたいと思います!

小松屋本店
http://komatuyahonten.net/pastry.html

松下幸之助氏が「美しい経済人」と呼んだ経営者、大原總一郎氏の鮮烈な生きざま!『天あり、命(めい)あり』/江上剛著


倉敷へ行きますと、素晴らしい街並みと共に大原美術館の素晴らしさに驚きます。

と、言いましても私が倉敷を訪ねたのはもう、10年以上前の話ですが、正直言ってあれだけの美術館があの場所にあることに、さらに私立であることに本当に驚きました。

そして、大原美術館を設立した「大原孫三郎」という人物が、あの「クラレ」(の前身・倉敷絹織)創業者である、それくらいのことは初歩情報として知っていましたが、そのあとを継いだ人物「大原總一郎」が、あの過酷な戦中・戦後を乗り切った、まさに「魂の」経営者であることを知ったのは、本書の編集をお手伝いさせていただいたことがきっかけでした。

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私は本書を拝読して、

「ああ、こんな理想を語る経営者の会社なら、ぜひとも働いてみたい」
そう思いました。とにかく、「志」が高い方なのです。

私は以前から、経営者に必要なのは「志」なんじゃないか、と僭越ながら思っております。自分がサラリーマンだったときもいつもそう思っていました。
経営者じゃなくても、上に立つ人、と言ってもいいかもしれません。上に立つ人が志を持てば、各分野のスキルのある人物がそれを支えることもできます。そこさえブレなければ、困難できつい道もどうにか突き進むことができる。そう思うのです。

理想主義者だと、きれいごとと言われてしまうかもしれないけど、どうかやらせてほしい、ついてきてほしい、そういうことを部下にいいながら、誰よりも働き、実現させました。……そして、あっという間に天国へ行ってしまった。

松下幸之助さんが「美しい経済人」と呼んだことの意味が、とてもよくわかります。

そして、なんといっても江上先生。先生の誠実で温かい筆致は、まるで本当に大原總一郎氏がそこで語っているように感じられます。

本書は「経済人ノンフィクションノベル」ですので、経営に興味のある方はもちろんですが、経済に興味がない人もぜひ読んでみてください。

58年の人生を生き切った、一人の「美しい人」の人生を知ることで、何か心にあつい勇気が生まれてくるのではないか、と思います。

(むとう)

【2016沖縄旅】②「ヤマト」と「ヤマトンチュ」


「ヤマト」から来た人
沖縄に行くと、
「どこから来た? ヤマトからね~?」
なんて話しかけられることがよくあります。

「ヤマト」とは、本州など、沖縄以外の日本のことをさします。そして、ヤマトの人のことを「ヤマトンチュ」、また「ナイチ(内地)」、「ナイチャー」というのもあります。
以前ですと、「ナイチャー」と言うと少々マイナスの意味合いがあったようですが、今はだいたいニュートラルな意味で使われるように思います。

私が初めて沖縄を旅した時、「ヤマトから来た?」と聞かれて、「ほへ?!」と一瞬考えて、「そ、そうです」と答えたことを印象深く覚えています。

なぜ一瞬考えたかとと言うと、私は自分がヤマト(大和)の人間であると思ったことが一度もなかったからです。あえて言うなら私は「ムサシ(武蔵)」の人間というか……。

敬愛する歴史家・網野善彦先生も、沖縄を訪ねたときに「ヤマトの人」と言われて、その都度「自分はヤマトの人という意識は持ち合わせていない、あえて言うなら甲州人です、と答えた」とも書かれてます。
私はそれを読んで「網野先生もそう思いますか?私もです!」と膝を叩いたものでした。

だって、ヤマトといったら「大和」ですよね。大和と言えば、今でいうと奈良県のあたりですもん。奈良は大好きな場所ですけど、それとこれとは別問題。
もし、ヤマト朝廷という意味で広義にとるにしても、関西発の政権であって、関東の人間にとっては外から来たもの。自分がヤマトの人間とは思ってないんじゃないかな、なんて思うわけです。

先日沖縄の友人にこの話をしましたら、え!そうなの?そう思うんだ!とびっくりしてましたが、そうかそういえばこういう話はしたことがなかったかも…
あ、でも、そう思うのは、私が歴史に興味があるから感じる感覚・こだわりなのかもしれない、一般的な感覚とはちょっと違うかも…。
もちろん、いやだとかってことじゃないよ~!…なんて話したのでした。

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〔写真・本文と関係ないですけど、大好きなナカグスクの写真、アゲイン)

いつから「ヤマト」?
さて、そういえばちゃんと考えたことがありませんでしたが、ウチナンチュが「ヤマト」と呼ぶようになったのはいつからなんでしょうか。

ちょこちょこっと調べてみましたが、やっぱり辞書などはすぐには発見できません。
そこで、困った時の沖縄学の父・伊波普猷先生の『古琉球』へ…

随分久しぶりに手に取りましたが、昔読んだときは意味わかってなかったんですね、改めて読むとすごく面白い!だいぶ理解できる気がします。私も大人になったなあ…

それはともかく、ぐいぐい読み進めていきますと……
あ、ありました!論考「琉球人の祖先に就いて」の中に、次のように書かれています。

「…それから7世紀の頃に南島人が初めて、大和の朝廷に来たことは国史の語るところであって、当時朝廷では訳語(おさ)を設けて相互の意志を通じたという事があるから、分離後六、七〇〇年にして大和言葉と沖縄言葉との間によほどの差異が生じていたと見える。しかし九州地方と南島との交通はそれ以前からあったのであろう。これから十二世紀に至るまで沖縄半島の住民が大和または筑紫に在来していたことはオモロを見てもわかる。何よりもよい証拠は今日に至るまで琉球人は内地のことを大和と言っていることである。後世大和は鹿児島を指すことになって、明治十二年頃の沖縄人は東京を鹿児島と区別するに大大和という語を用いた。……」(P64より引用)

伊波先生は、『おもろそうし』の研究で、日本上古で使われていた古い言葉がたくさん『おもろ』に発見できることなどと、ほかのいくつかの論拠をもって言語学的な立場から、大和民族と沖縄民族のルーツは同じものである、とする立場です。
なので、「分離後六、七〇〇年にして大和言葉と沖縄言葉との間によほどの差異が生じていたと見える」という表現があるんですが、それはさておき……

これを拝見しますと、少なくとも『おもろそうし』の中では、「ヤマト」と呼ばれていることが分かりました。

『おもろそうし』は、琉球古語による沖縄最古の古謡集で、「沖縄の万葉集」と呼ばれたりします。国王により三回にわたって収集され、第一次は1531年、第二次は1613年、第三次は1623年、全1554首・全22巻という大作です。

12世紀ごろからの古謡が収集されている『おもろそうし』ですので、この中にあるということは少なくとも12世紀ごろには「ヤマト」と呼ばれていると思っていいのかなと思います。

「ヤマトンチュ」と呼ばれていたかどうかはちょっとわかりませんが、少なくとも800年あまり、ウチナンチュは、本州人を「ヤマトの人」と呼んできたということですね。

伊波先生の著書を読みますと、日本の古い言葉が沖縄言葉の中にたくさん残されていることを知ることができますが、この「ヤマト」という言葉もそうかもしれません。

たとえば、7・8世紀ぐらいの武蔵国(現在の東京・埼玉付近)でも、「西の方にある大きな政権」のことを「ヤマト」と呼んでたんじゃないかな、なんて想像するのです。
しかし、その後「ヤマト」がトップだった時期は終わり、政権主体も場所も変化していくなかで、呼び方も変化していきましたが、沖縄の中ではその言葉は保存された……。

そう考えますと、「ヤマト」、「ヤマトンチュ」という言葉は、なんとも歴史と趣きのある、奥ゆかしい言葉だと感じます。

「ヤマト」=「大和」という意味ではない。沖縄で、「ヤマト」=「日本列島の住人」という意味で長く使われてきた沖縄言葉ということなんですね。

これまでは、「はい、ヤマトンチュです」と答える時に、

「でも本当は埼玉生まれなんです、ヤマトではないんだけどな~」

という、ちょっと照れくささというか戸惑いがあったのですが、そう考えたらもう戸惑わなくていいのかも、と思うようになりましたw。

(むとう)

【2016沖縄旅】①「琉球」と「沖縄」、二つの呼び方、どちらが古い?


告白。沖縄への思い
久しぶりに大好きな沖縄に行ってきました!
今回の旅は、15年余り通い続けた中でも、ちょっと特別な旅だったように思います。

大好きな沖縄を、あくまでも「プライベートな面での心のオアシス」として保存しておきたかった私は、仕事で沖縄の本をつくったことはほとんどありません。例外的に一冊だけ、沖縄味噌のレシピ本を作ったことがあるだけです。
「仕事」はシビアな世界ですから、大事な沖縄をそこに絡ませたくない、とそんな気持ちがあったんですね。

しかし、そもそものことを考えてみると、私が沖縄に通うきっかけになったのは、間違いなく本来私が追い求めてやまないもの、『歴史と文化』ど真ん中への興味からだったのです。

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〔写真:ナカグスク)

まず、最初に度肝を抜かれたのは、「中城(ナカグスク)」の美しい石積みでした。全く予備知識がないまま、訪れた中城にすっかりはまってしまい、書店に直行。沖縄には「グスク」という城郭と聖地を足して二で割ったような、本州にはない素晴らしい遺跡があることを知りました。
そして御嶽(うたき)、ユタに代表されるような、濃厚な宗教世界に圧倒されました。

そして音楽。私はもともとソウルミュージックやロックが大好きでしたので、沖縄の音楽シーンは堪らなく魅力的でしたし、また、民謡も大好きになり、結局登川流で民謡を習うまでになりました。
さらに、もちろんもっとも魅了されたのは、沖縄に住む人たちでした。
大らかで茶目っけたっぷり。うちなーぐち(琉球語)がまたたまらなくいいかんじ。
通ううちに、尊敬するミュージシャンのねえねえ方に知り合うことができ、それでかわいがってもらうようになったもんだから、もう居心地良いったらないわけです。

いや~、ほんとどっぷりですよ!

ところが、今回の旅で、一つ自分の中で明らかに変化したことがありました。

「大事だからこそ、仕事でも、沖縄のことを書いたりしてもいいのではないかしら」

ここのところです。
今の仕事も、好きでやっていることです。いつも余裕なしでキュウキュウ言ってますけど、しかし、やはり好きでやっている仕事です。そのど真ん中で、もっと好きな沖縄に関して発言してもいいのではないかしら、と急に思うようになったのでした。

「琉球」と「沖縄」という呼び方

そんなわけで、仕事とはいいがたいですが、本HPでもちょっとまじめにトピックスを書き出していきたいと思います。
まずは、「琉球」と「沖縄」という呼び方について。意外となんとなーくで使っていますが、この呼称、いったいどういう違いがあるんでしょうか。

なんとなく、「琉球」のほうが本来の呼び方であって、「沖縄」は、いわゆる明治政府による「琉球処分」により、「沖縄県」になって以降の名称、と言った印象が強い気がします。それはそれで、間違いではないのですが、「沖縄」という名前も古くて、とても大切な呼称である、ということは意外と認識されていないような気がします。

まず、「琉球」ですが文献に出てくるのはかなり古いのですね。

636年『隋書』の「東夷伝」に「流求」とあるのが、最初です。その後、14世紀後半に明国によって「琉球」と表記すると決められ、それに周辺諸国が倣った、ということのようですね。

一方、「沖縄(おきなわ)」が文献に登場するのは779年、鑑真の伝記『唐大和上東征伝』に、「阿児奈波嶋」とあるのが最初のようです。

鑑真さんは、あの唐招提寺を創設した偉大なるお坊様で、皆さんよくご存じと思いますが、何と沖縄に漂着していたんですね!

『日本歴史地名大系』によりますと……

「同書によると天宝一二歳(七五三)一一月一六日に四船で蘇州の黄泗浦を出発し、同月二一日に第一船と第二船が同時に「阿児奈波嶋」に到着したとある」

とあります。

その読み方は、「アコナワ」「アジナワ」「アルナワ」と、諸説あるそうなのですが、歴史学者・東恩納寛惇さんは「島民の語音ウチナワを表記したものであろう」と『南島風土記』でのべておられるとのことで、つまり、もともとの住人は「ウチナワ」と言っていたということだと思われるのですね。

国際語としての名称が「琉球」

こういう現象は、現在でもたくさんありますよね。

たとえば、私たちは日本人で、自分の国のことを「二ホン」「ニッポン」と呼びますが、海外では自ら「ジャパン」と言いますね。それと同じ。

それと、数年前に、ミャンマーの友人に、軍事政権によって国名を変更されてしまったのは、いやじゃない?と聞いたことがあるんですけど、
「ちがうんだよ、ブーマと同じくミャンマーという国名も古い名前で、国内ではそう呼ばれてたから、政府が変更したわけじゃない。国際的な呼び方もミャンマーにするって宣言しただけだから、別に違和感ないんだよ」

へえ、そうなんだ!と驚いたことがありますが、あ、そういや日本だって二つの名前があるもんな~、いや、二つの名前どころか、中国語だとリーベンだし、タイ語だとイーブンか…いろいろありますね。

沖縄もそういうことと言えそうですね。

地元の人たちは、自分たちのことを「ウチナワ」と呼び、対外的には「琉球」と呼んだ。「琉球」という名前は外側から与えられた名前ですが、それはそれでいろんな国の人が分かってくれるなら便利でいいかな、という感じだったかもしれません。

そして、「沖縄」という漢字、これも当て字となるわけですが、これは、『国史大辞典』によると、

『「オキナワ」の宛字のうち、『おもろさうし』の「おにきや」は古い呼称とみられるが、ほかに悪鬼納・倭急拿・屋其惹などがある。「おきなは」と最初に表記したのは長門本『平家物語』で、初めて「沖縄」の文字を使用したのは新井白石の『南島志』である。』

とあります。こちらも、歴史がありますね。「おきなは」の表記は、13世紀初頭の平家物語にはもう出てくるんですものね。新井白石の『南国志』は1719年に書かれてますから、これも古いです。
(とはいえ、いっぽうでこの「沖縄」という呼称が日本サイドからの呼称として、広く一般的だったかと言えば、ちょっと疑問ですね。「琉球使節団」のように、「琉球」と呼ぶのが一般的だったように思われます…)

そう考えますと、琉球処分の後【沖縄県】としたのは、あながちおかしなことではない気がします。「ウチナワ」転じての「沖縄」であれば、です。
【琉球県】としなかったのはなぜか、琉球人のアイデンティティを奪うためか?!と鼻息を荒くする必要はなかったのかもしれません(私はちょっと鼻息荒くしてましたが;;)。
どちらも、うちなーの人々にとって、親しんできたであろう国名なのではないかと思うからです。

とはいえ。様々な呼び方の中で、やはり私は「うちなー」が最も好きです。

沖縄の友人や、師匠が語る言葉の中に出てくる「うちなー」という言葉が好きで、私もこの呼び方を好んでいましたが、この優しい音が沖縄の本質に近いような気がしていたからかもしれません。ちょっと後付けですけども^^;。

(むとう)

file.120 千日の「ぜんざい」


いちにちいちあんこ久しぶりの長期休暇をいただき、大好きな沖縄にいってきました!

数年前までは年に2、3回通っていたのですが、フリーになってからはあまり休みが取れず、今回はなんと2年半のブランク。なんと…

久しぶりの那覇は、すごく変化していました。

そう。「すごく」です。

再開発の波はとどまるところを知らず…

そんな気がして、なんとなくいつも以上に沖縄感覚にチューニングしづらいような…

私はいつも来沖したら一番初めに波の上宮にお詣りし、ご挨拶することにしているのですが、なんと言いましょうか、そこでもまだチューニングしきれない…

ということで。

千日へ、ゴー!

image千日は「ぜんざい」と言えば、まず最初に名前が上がるような、観光客にも有名な甘味と軽食のお店です。休日は行列ができたりするそうですよ。

「ぜんざい」と言うと、小豆のあったかいあんこの中にお餅が入っているものを想像するかもしれませんが、沖縄の「ぜんざい」はまたひと味もふた味も違います。

20160513-2こちらが、沖縄の「ぜんざい」です~!

かき氷じゃないですよ、ぜんざいですよ!

20160513-3

下の方を見てください、
この下の部分が主役です

20160513-4最初は大変ですが、よいしょよいしょと掘り起こしますと、出てきました~!あんこ部分!
あんこ、というのもちょっと違かな。いや、しかしあんこと言いたい。

この明るい茶色ですが、そうなんです。小豆のあんこではありません!

20160513-5

金時豆のあんこなのですね~!
アズキと違って、金時豆のほうが軽やかな味わいかもしれません。少しねっとりとしたテクスチャ-と、上品な甘さがなんとも言えず美味しい。

千日では、この美味しいぜんざいを300円でいただけます。

変わりゆく沖縄の中でも、この味は変わらない…。
私は、この一杯をいただいて、ホッと一息つけました。ようやくいつものようにチューニング出来た気がしたのです。
素朴で必要なものだけがあるような店内、ふんわりと優しいおかみさんの笑顔と、丁寧に炊かれた金時豆のかおり、そして味。

この、素朴で優しい風景が「古き良き沖縄」となってしまうのも、残念ながらそう遠くないかもしれません。それほど、沖縄の変化は加速度的に進行していると感じました。

いつまでもこの優しい美味しい味が残ってほしいです。

千日
http://tabelog.com/okinawa/A4701/A470101/47001481/

 

終戦のあの時、いったい何が起こっていたのか。「今の日本」の始まりを知るための絶好の一冊、登場!『マッカーサーと日本占領』/半藤一利著


戦後71年目を数える今年。

昨年は70年ということで、新刊のラッシュに加え、『日本の一番長い日』が映画化され、年末には菊池寛賞の受賞と、大忙しだった半藤一利先生。
年が明けて、いよいよこちらの本書も刊行とあいなりました!
20160418

半藤一利先生のご本をお手伝いさせていただいて、なんと三冊目。単行本としては初めてになります。

これまでは、どちらかというとエッセイ的でしたが、今回はかなりずっしりとしたテーマです。
正直言って、「マッカーサー」「日本占領」なんてど真ん中のテーマを、私なんぞで大丈夫かと危ぶみました。しかし、そこは長年ご担当されてきたO編集長がいらっしゃるので、大船に乗った気持ちで、でもコマゴマビビりながらお手伝いさせていただきました。

そんなわけでしっかりずっしりながらも、そこはさすがの半藤先生。とにかく読みやすい&わかりやすい!
「あの時」の、マッカーサーと昭和天皇のやり取りなどから、マッカーサー、昭和天皇がどういう人であったのかを、知ることができますし、
改めてあの敗戦を見てみると、その凄まじさに改めて驚くとともに、その後に起こった様々なことが、本当にすれすれ、紙一重の決断や成り行きによって決まっていったのだ、ということがとてもよくわかり、改めて肝が冷えます。

そして、もう一つ、やはり本書のポイントは、カバーにも使われている「写真」かと思います。(巻頭には写真が24p載ってます!)

カバーのカラー写真、拝見してその状態の良さに驚きました。フィルムの退色がほとんどなく、とても70年前のものとは思えないほどクリアなんです。
だからこそ、この生々しい表現につながるんですね。

何の説明もなくこの写真を見たら、今現在、戦災などでダメージを受けたどちらかの国で撮影されたものと思ってしまうかもしれません。

先生と編集長が、この衝撃的な写真をカバー写真に決められたと教えていただいた時、私は思わずうなってしまいました。
元々は、マッカーサーの顔写真を…なんてお話もあったのですが、それがこちらで決定というのは、ものすごい方向転換とも言えます。

マッカーサーを軸にした本でありながら、この本の主役は被災した名もない日本国民なのではないか。先生はそれを示すためにこのお写真を選ばれたんじゃないか……と、そんな風に想像して、思わずうなったのです。

あの時、日本人はみんな、こうした状況だったんですよね。履くものもなく、着るものもなく、焼け跡になってしまった愛するこの地を呆然と眺める。そんな状況です。

そして、それは、一見遠い風景のようでありながら、決して遠いことではないのですね。
わたしたちが生きているこの社会は、「あの時」定められた方向性の上に成り立っているのです。

良い悪いではなく、まずそのことを知らなくてはならない、そう痛感します。

例えば、憲法についても、
「日本国憲法は、アメリカに押し付けられたものだから、我々の憲法ではない」
そういった言説をよく聞きます。

確かに、日本国憲法は、日本人だけで作ったわけじゃありません。アメリカの、というかマッカーサーの意図が大きく働いたことは間違いないでしょう。
しかし、第二次世界大戦という途方もない戦争を経て、もう今後戦争なんて言う馬鹿げたことをしてはいけない、マッカーサーを始め、そう痛感した人たちの思いが――当時の時代を代表する大きな痛感が、人種を越えてあの憲法に結晶化したってことじゃないのか……そう感じられるのです。

「歴史を勉強する意味なんてあるの?」
歴史が好きだというと、そんな風に聞かれることがありますが、私は意味があると思います。歴史を知るということは、「今」が、「なぜ」「どうして」こうなっているかを知ることです。

本書はもちろんオススメなのですが、一緒に半藤先生の『昭和史』も読んでみてほしいと思います。

こちらは、太平洋戦争以前から、戦後の復興までの流れを知ることができます。(戦後篇ではそのあとも知ることができます!)
『マッカーサーと日本占領』はどちらかというと「点」です。特に戦後の5年間、マッカーサーという人をたどることで、その時の日本が見えてきます。
一方、『昭和史』は「線」です。流れの中で、その時の日本を知ることができると思います。

今まさに、熊本・大分地震が発生し、多くの方が被災しています。
災害も多く、国内外に課題が山積している日本に生きている私たちです。あの未曾有の大惨事、何が起こり、大先輩たちがどう対し、乗り越えようとしたのかを学ぶことは、必ず意味があると私は思います。

是非、お手に取ってみてください!

(むとう)