ichimori の紹介

日本の文化と歴史を愛するフリーエディター・ライター。最も影響を受けた人物は、幼稚園時代の恩師(ベルギー人)と網野善彦氏。ペンネームも氏の著作の一部から拝借している。趣味は旅。

【若狭旅】⑤観る者を無碍自在へと導く美しさ!中山寺ご本尊、秘仏・馬頭観音菩薩坐像


秘仏・馬頭観音菩薩坐像!!

さて、今回の旅の、最大の目的である中山寺のご本尊を拝観しましょう!

実際に拝観したのは11月ですからもう三ヶ月くらいたちますが、あの感動は今見たかのようによみがえってきます。

中山寺の山門で、えらいこと感動したわたしでしたが、またこちらの本堂を前にして思わず震えました。

20141213-9

かっこいいです!!!!

1343年に建立されたという本堂は、重要文化財に指定されています。この穏やかながらもすっと伸びた屋根の反りの美しいこと。

そして由緒正しいお寺にふさわしい、正面一基の金燈籠。灯籠自体は新しいものですが、このスタイルを選ばれているところが、さすがという感じです。

この中に、あの白洲正子さんも絶賛した馬頭観音さんが居られるとは。なんと相応しいんでしょうか。

文化財に指定されますと鉄筋コンクリートで耐震構造のある建物で保管しなければならなくなったりします。どうしても、法律上しょうがないことなのですが、やはり本来祀られている場所に、そのままある、というのすがたに出会いますと、本当に嬉しくなってしまいますね。

観る者の意識を解き放ってくれるような!?

そしていよいよ、ご対面です。

山門の仁王さんでまずはひと感動、さらに本堂でも感動を重ねて、そこからの馬頭観音さんですよ。期待は否が応にも高まります。

年を経て美しい茶色になった階段を踏みしめ、ほの暗い本堂の中へと入ります。

そして、いつになくいそいそしずしずと、お厨子の中にあるご本尊で秘仏の馬頭観音坐像を拝観しますと…

……

………うっ。

美しい!!

20150119-10

ご参考までにパンフレットに掲載されてました写真をご紹介させていただきますが、正直言って、この10倍美しいです。

不思議なことなのですが、まさにこのお姿なんですけど、ナマで拝見するとなんか違うんです。気配っていうか。なんと言えばいいのか…。

例えば、腕や手の柔らかく優しい線、写真でもお分かりになるかと思いますが、実際にはその優しさが限りない感じなのです。限りないというか、はてしない、といった表現のほうが合うかもしれません。

また、お顔は憤怒相をとられてますが、男性的に見えて男性的でない。かといって女性でもない。いや、でも女性のもつ美しさ、強さ、そういったものも感じさせてくれるのですよ。それが同時に男性的な力強さをも帯びている、といった感じ。

ううむううむ。

何でしょう、この美しさは!

ちょっともう、どうにも説明できませんよ!

それでも、あえて言うならば……。

圧倒的に美しく、まさに人界を超えた世界を現しておられるので、果てしないイメージの広がりや可能性を、観る者に与えてくれるお像、といったかんじ。

今回私は、このお像に拝観して、すごく「認められてる」ような気持ちがしました。

「よくきたな。そうそう、それでいいよ」

そんなかんじです。肯定されるようなあたたかい感じをいただきました。

でも、また違う精神状態の時には、まったく違う印象を感じるかもしれないと思います。実際、一緒に観た方たちにも、コワイと思った方もおられたようですし、まさに千差万別です。

人によってその姿を変える、まさに「観音」さんそのものではないですか!
無碍自在(むげじざい)、この言葉は禅の世界で妨げるものなく自由である境地のことを言うそうですが、そんなふうに、その美しい変幻自在なお姿でもって導いてくださるような、ものすごいお像だと思います。

こちらのお像は秘仏ですから、生きている間に再び拝観できることはないかもしれません。次は17年後……。

…あれ。50ン歳か。いけるかも??!

また、来たいな。その時にはどう思うんでしょう。自分がどう思うのかすごく気になりますね。

念願の秘仏ツアー、大満喫!
さて、こうして、無事長年の願いであった、中山寺と馬居寺の秘仏・馬頭観音さんにお参りすることができました。

中山寺さんでは、美味しい和菓子とお抹茶の接待もしていただき(ツアーの中の一環です)、とても心地よい時間を過ごすことができました。

あいにくの雨でしたが、とても晴れやかな気持ちになる、いい一日でした。

やっぱり、本物を見るのが一番楽しい!

そしてそのために、はるばる来るのが、またたまらなく楽しいんですよね。たいへんですけど!

(むとう、了)

 

 

異色コラボ!戦国ファンタジー小説『ヤタガラス』/豊田巧著・カズキヨネ画


昨年はアニメ化も果たした人気ラノベシリーズ『RAIL WARS! – 日本國有鉄道公安隊』などものされている豊田巧先生と、『薄桜鬼』など大ヒットゲームの原画やキャラクターデザインで大人気のカズキヨネ先生が異色のコラボ。

実は企画が起こってから二年ごし。
お忙しいお二人ゆえに少々お時間がかかりましたが、どうにかこうにか無事、出版していただくことができました。

さて、歴史ものは初めてという豊田先生ですが、リキを入れて取り組んでくださり、本格な戦国ファンタジーにしていただきました。そしてそこにさらなる躍動感を吹き込んでくださったのが、カズキヨネ先生です。

このカバーをご覧ください。
20150127-2美しく強い、しかしどこかガラスのような繊細さを感じさせるこの瞳…。
これこそまさにカズキヨネ先生にしか描き出せない「孫十三」像なのではないでしょうか。

ここで、簡単に内容をご紹介いたしますと…。

時は戦国、乱世の時代。桶狭間の戦いの少し前からお話は始まります。
主人公の雑賀孫十三は、天才的鉄砲撃ち。相棒の四郎はこれまた天才的な鉄砲鍛冶で、暗殺稼業をして諸国を行脚しています。金にはシビアな二人なのですが、実はそれには理由があり…。

キリスト教信奉者となった孫十三の姉、カタリナの「弱者でも平和に暮らしている平和な世の中をつくる」という夢をかなえる手助けをしようとしているのです。しかし…。

今回は全部で4話。明らかにされたこともあり、しかし新しい謎も現れ…。この4話でも十分楽しんで読んでいただけると思いますが、今後の展開をつい期待したくなってしまう内容になっております。

ぜひ皆さん、お手に取ってみてください。

(市森むべ)

会津と会津人~白虎隊の件~


鶴が城を後にして、私たちは、飯盛山へと向かった。
飯盛山はこんもりとしたかわいらしい山だ。「お椀にご飯をもったような」形が語源だったというのもなるほどという優しい雰囲気で、まさかそんな悲劇の現場だとは思わないだろう。

白虎隊についてご存じない方もいらっしゃると思うので、ここで簡単に彼らの概略をお話ししておきたいと思う。

白虎隊は、 旧幕府軍と新政府軍の間で起こった戦い、戊辰戦争で、会津藩に編成された部隊のうち、16~17歳の武士の子供たちで構成された部隊のこと。
会津藩は、旧幕府軍の中心をなしていたため、新政府軍によって徹底的に破壊されたが、白虎隊のうち19人はその戦いの中で、集団自決を遂げたのだ。その痛ましい死を多くの人が悼み、現在も多くの人が追悼に訪れる。その自決の地になったのが、この飯盛山なのである。

1678年に建造された農家建築。木造の建物が、戊辰戦争の本陣となったのに、その後も現存していることが奇跡のようだ。重要文化財。

飯盛山に入る前に、滝沢本陣に立ち寄った。
戊辰戦争の際には、容保(かたもり)公が出陣し、こちらが本陣になったそうで、その当時の弾痕などが生々しく残っていて、戦いの激しさを偲ばせる。

戸ノ口堰。江戸時代初期、猪苗代湖から水を引くために掘られた人工水路。

飯盛山へはここから歩いて3分ほど。
住宅地を歩いて行くと、白虎隊が猪苗代湖から帰ってくるときに通った洞穴「戸ノ口堰(とのぐちせき)」が見えてきた。洞穴といっても人工のもので、猪苗代湖から、会津市内に水をひくために作った水路だという。
こんなに狭くて冷たい水の中を10代の少年たちがこえてきたのかと思うとそれだけでも、切ない気持ちがわいてきてしまう。

江戸時代の「武士」と聞くと、私たちとは違って戦場に赴けるんじゃないか、と思ってしまうが、その考えはたぶん間違っている。
江戸時代は、200年あまり大きな戦がなかった時代だ。武士としての教育は受けていたが、「平和ボケ」している私たちと大差はない。
大義のため、とはいえいきなり人を殺せと言われる。または簡単に人が殺されていく状況を、平然と捉えられるわけがないじゃないか、と思う。しかも彼らはまだ10代の少年たちだった。今の10代より大人びていたかもしれないが、少年は少年だ。実は彼らが自決したのは、判断間違いがあった(城下町が燃えている火を見て、鶴が城が落城したと勘違いした、という)という説がある。が、もしそうだとしても、この状況下で正しい判断ができたかどうかは、大人だって難しい。
飯盛山の中腹に、白虎隊の墓はあった。遠くに鶴が城を望むことができる。
実は、この場所に墓をつくったのには、松江豊寿さんが関係している。
私たちには想像もできないことだが、戊辰戦争後、会津は「逆賊」として、新政府から差別された。戊辰戦争で亡くなった人たちを悼むような行為もおおっぴらにはできなかったのかもしれない。
『二つの山河』(中村彰彦著)によると、白虎隊の墓は、当初は山のかげの狭いところにあったという。しかし、東大総長・京大総長を兼務した理学者・山川健次郎氏が、それを遺憾とし、鶴が城が見える南側の斜面に墓地を移築したいと松江さん(当時市長)に提案した。
松江さんは、直ちに工事着工を決意した、という。

坂東俘虜収容所での松江さんの振る舞いからしたら、これは当然のことだろう。白虎隊の死を悼むことは、そのほかの多くの無名の会津人を弔うことに通じる。彼らの死を「判断違いの」死、ととらえるのではなく、会津人として振舞ったものとして追悼する。これは、誇りを持って前に進むためにも必要な行動だったと思う。

そして現在。
遠くには復元されて鶴が城の天守閣が望める、明るいこの飯盛山の斜面に白虎隊は祀られているのだ。
私たちがここにいる間にも、多くの人が訪れ、何とも言えない表情で手を合わせていた。直接会津に関係なくても、日本人として彼らの生きざまには忸怩たる思いが湧く。
私も、ただ黙って手を合わせ、頭を垂れた。

前回ご紹介した「あいづっこ宣言」がされた土地には、こういう悲劇の物語がある。あいづっこ宣言の、「5.会津を誇り、年上を敬います」には、自分たちの足元にあることを知ろう、ということも含めているんだろうと思う。つくづく、会津はすごいところだ、と思った。

お墓の前には、かわいい柴犬が番をしていた。人懐こく寄ってきてペロペロと手を嘗めてくれた。「番をして」いるというよりは、神妙な表情になった参拝客を慰めてくれているような気がした。なでろなでろ、と体を押し付けてくる柴犬。私も彼の優しさに慰められ、温かい体をなでながら、いつの間にか笑顔になっていた。
なんとなく、そんなことも、会津らしい気がしてジンワリと心が温かくなった。さあ、もう大丈夫ですから笑ってください、と逆に気を使われてしまったような…。少しだけ涙が出た。
(「会津と会津人」・終)

会津と会津人~保科正之さんの件~


福島県会津若松市は、意外と遠い。 Nさんが車を出してくれたので、車で悠々と出かけたけど、5時間ほどかかった。

会津若松は、空気も澄んでいて、なんとなく気高いような気配がした。 ああ、ここが松江中佐を育んだ土地なんだ、と思い、どうしても投影してしまうのかもしれない。
でも、松江さんだけはなくて、この地にゆかりの人々は、さわやかに自分の信念を貫きとおした人たちが多い。藩祖・保科正之、最後の藩主・松平容保。そして、白虎隊。 時代も年齢も立場も違うが、どうもカの人たちには共通する臭いがあって、それを私たちは「会津人」と呼んでいるような気がする。

さて、まずは、名城・鶴ヶ城へ。 この城は、14世紀終わりごろ、のちの会津守護・蘆名氏によって館が作られたのが始まりだそうで、その後、東北の雄がこの城の主となってきた、といっていいだろう。

鶴が城。現在の姿は再建だが、風格と緊張感があってとても美しい。

鶴ヶ城の凛としたたたずまいは、まさに会津人のたたずまいだと思った。美しい。 この城を見ていると、やはり浮かんでくるのは、藩祖保科正之公のことだ。

正之さんは、徳川家3代将軍家光の異母弟。恐妻家だった父・秀忠公は、妻の目を掠めて側室をもったが、その子・正之さんを認知することはなかった。しかし、正之さんは武田信玄の娘たちに守られ成長。9歳を迎えると武田家の旧臣、保科氏の養子になって大名となった。

そして、一大名として実の兄、三代家光公に仕えた。彼が二代目のご落胤であることは周知の事実だったらしい。とはいえ自分の出自を誇ることなく控え目に振舞っていた。
実兄の家光公は、弟がいることを知らなかったという。しかし、正之さんが実は家光公の異母弟である、と教えた人があり、その後、家光公は、控え目で有能な異母弟を愛し、厚く遇した。正之さんもそんな兄の思いを受け止め、尽くしに尽くしてその厚情にこたえた。

この保科正之という人物も、大好きな人物だ。これまた中村彰彦さんの『名君の碑(いしぶみ)』という小説の正之像をうのみにしてるのだけど、とにかくかっこいい。 正之さんの偉業は数えたらきりがないが、ひょっとしたら、精神教育が最も大きな偉業かもしれない。

会津若松市は、平成14年から『あいづっ子宣言』を策定し、実施している。その内容は以下の通り。

『あいづっこ宣言』
1.人をいたわります
2.ありがとう、ごめんなさいを言います
3.がまんをします
4.卑怯なふるまいをしません
5.会津を誇り、年上を敬います
6.夢にむかってがんばります
やってはならぬ やらねばならぬ ならぬことはならぬものです。

これは、正之さんの教えである『会津藩家訓十五箇条』をもとに、市民で策定したものだという。
この内容をみて、ああ、会津だなあ、とうなづく人は多いだろう。

つまり、こういう信念を持ち、貫こうとすると、会津人になる。 先の松江中佐しかり。保科正之公しかり。

それは時に悲劇的な結末を呼ぶことがあるが、貫いて死ぬことはけして悪いことではない、と思ってしまうのは私が日本人だからだろうか。

とはいえ、白虎隊の話は、あまりに痛ましいと思ってしまう。それは彼らがまだ10代の少年たちだったからだし、凄烈に過ぎるからだ。 会津城の訪ねた後、私たちは、戊辰戦争(会津戦争)の舞台、滝沢本陣と飯盛山を訪ねた。

(会津と会津人~白虎隊の件~に続く)

 

会津と会津人~松江豊寿さんの件~


歴史好きだという人にどのあたりが好きですか?と聞くと「会津が好きです」という人は多いと思う。場所も、人も。
かくいう私もご多分にもれず、会津は大好きだ。

始まりは『二つの山河』(中村彰彦著)だった。あまりにも有名な作品なので、ご存知の方も多いだろう。第一次世界大戦の後、徳島「板東俘虜収容所」の所長を務めた、松江豊寿(とよひさ)大佐と彼が起こした宝物のような出来事の話だ。

何度読んでも、必ず泣いてしまう一冊。

松江豊寿さんはその後少将になり、会津若松市の市長になった人物だが、この本を読むと、なんと美しい生き方の人がいるんだろう!とため息をついてしまうほど。

第一次大戦の際、日本は戦勝国の一つだった。この坂東俘虜収容所は、青島陥落で投降したドイツ人兵を収容するための収容所だった。
松江さんは、ドイツ兵を「敗者」として扱わなかった。『人間』として尊重したのだ。それはこの時代においては、ほとんど奇跡のような出来事だった。
その奇跡のような出来事でこの小説は成り立っていて、好きなエピソードを上げていったら全部紹介しなくてはならなくなるので、細かい紹介はあえて避ける(この小説は、あっという間に読める小篇なので、ぜひ、手に取っていただきたい)。

松江さんが、なぜこれほど人間愛にあふれ、公平で、チャーミングだったのか。著者の中村さんはその根拠のひとつを「会津人」に置いている。

会津藩、および会津人の気質について語ろうとすると、一晩でも語れてしまうような気がする。他者を気遣い、誇り高く、信念のために命を賭す…。特に幕末の会津藩の振る舞い、会津人の性質というのは感嘆するほかない。これこそ新渡戸稲造博士のいう『武士道』のサムライなんじゃないか、と思う。

さて。

実は、そんなに会津が好きだと言いながら、恥ずかしながら会津に行ったことがなかった。昨年夏、たまたまさそって下さる方がいて、またその方が会津にとてつもなく詳しく、案内して下さる、というぜいたくな旅をすることができた。

当時、大震災と原発事故のために、福島県はかつてない苦境に立たされていた。同行者Nさんは福島をとても愛しており、「こんな時だからこそ、いつもどおりに、いつも以上に福島に行きたいんだよ」と言った。なるほど、それはとてもよくわかる。
私もぜひご一緒させて下さい、とお願いした。Nさんはとても喜んでくれた。

福島への旅はこうして始まった。

(次回「会津と会津人~会津若松へ~」に続く)

王塚古墳、今日・明日特別公開中!


装飾古墳の白眉としてあまりにも有名な
「王塚古墳」が特別公開しています。
しぬまでに、一度見てみたい、素晴らしい色彩とデザインの世界!
今年こそ行きたいと思っていたけど、またいけなかった…

王塚古墳・特別公開
http://www.town.keisen.fukuoka.jp/ouzuka/index.html

これはすごい!装飾古墳を検索できるサイト発見。


今年の3月に茨城県の虎塚古墳を生で見て以来、
すっかり装飾古墳に魅せられてしまった。
本場・九州の装飾古墳もみたいなあ~とすっかりその気。
そんなとき発見したのが、これ。

九州国立博物館の『装飾古墳データベース』 http://kyuhaku.jmc.or.jp/

名前からはもちろん、地図からも、文様からも検索可! すごいですね。

「鎌倉密教~将軍護持の寺と僧」@金沢文庫開催中(~10/8)


金沢文庫で、「鎌倉密教」の特別企画展が開催中!

鎌倉幕府は、禅宗の気配が濃い気がしていたけれど、もちろん密教も濃く入っている。武家にとっての都であった鎌倉を護持するため、神事や密教の修法を行ったとのこと。鎌倉時代の関東密教を知るいい機会。だけど、明後日までということでイチモリはいけません。
誰か感想を教えてください!

中世歴史博物館 神奈川県立金沢文庫 http://www.planet.pref.kanagawa.jp/city/kanazawa.htm

レキベン的体験~始まりの話~


歴史の本との幸福な出会い

世代的なこともあるかもしれない。地域的なこともひょっとしたらあるかもしれない。でも、私の限られた体験の中で、大きなエポックメーキングと思っているのは、網野善彦さんの著作との出会いだった。

子供のころから、歴史的な物語が大好きだった。隣の席の男の子の名前は覚えられなくても、古代の王族の名前なら覚えられた。その傾向は高校生になっても続く。 読む本は、古典を現代語訳したものや、神話や民話が多かった。ある日、ふと気付いたのは、「生きている作家」の本をほとんど読んだことがない、という事実だった。これには我ながらちょっと引いた。いくらなんでもそれはないでしょう。

そこでたまたま、手に取った本が、隆慶一郎さんの歴史小説だった。女子高生なのに我ながら渋いセレクトである。もう、おわかりだろう。そしてその次に進んだのが、網野善彦さんの『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』(平凡社)だった。

私はこの本と出会い、視界が開けて、世界がパーっと明るくなったような気がした。 「そうだよね!中世にもやっぱりいろんな人がいろんな生き方をしてたんだよね!」 そう一人合点して、一人舞い上がった。当時、周囲から浮いてしまう自分に悩んでいた私は、「いろいろいて、それが豊かなんだ。」そう思わせてくれたこの本に、心から感謝した。 今読むと、必ずしもそういうことが書いてあるわけじゃないんだけど、読者は自分に引き寄せて読むから、それでいいんだろう(と思いたい)。

この本との出会いが、今思えば私の「レキベン的体験」の始まりだった。 きっと勝手な読み方をしている。場合によっては思い込みで間違えているかもしれない。でも、歴史家の本を読んだその時間だけは、一瞬今の時間から解き放たれて、とても幸せな気持ちになれるのである。その瞬間を私は愛してやまない。

だから、一生懸命歴史の本を読む。そして時に現地を訪ねる。時に講演会を聞きに行く。歴史小説や時代小説も漫画もできるだけ読みたい。何かを気づかせてもらえるかもしれない。

「レキベン」は「歴史をいつまでも勉強する」の略だ。いつまでたっても勉強は終わらない。終わらないことが嬉しい。死ぬまでずっと勉強できるなんて、やっぱり幸せなことだなあと思う。

むとういくこ拝